きままにブログ

臨床心理士・公認心理師。臨床心理学の話とか持病(再生不良性貧血)の闘病日記とか趣味の話とか色々書いてます。Twitter(@YllXyo)と質問箱(https://peing.net/ja/yllxyo)もしています。

闘病生活日記④ ~難病指定病院へ転院した話~

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前回のブログ(闘病生活日記③ ~急遽退院することになった話~)の続きです。

 

新たな主治医と出会う
 前回にも書いたように、僕は三度目の転院をすることになった(実はその後ももう一度だけ転院しますが)。その新たに転院した病院は、「難病指定病院(指定医療機関)」に指定されている、骨髄移植にも長けた大学病院だった。やはり大学病院となると患者さんの数が非常に多くて、待ち時間も数十分~数時間と桁外れに長かった。けれども、今後の事を考え、しっかりとしたより専門的な病院で治療を受けたいと思って決めたことだった。後で実感したことだけど、やっぱり町の病院や難病指定病院でない他の病院に比べ、より専門的な機器やお医者さんが揃っている難病指定病院で治療を受けた方が経済的な面でも医療の指針の面でも治療の進め方についても確りしていると思った(再生不良性貧血と診断される可能性のある方は、早い段階から指定医療機関へかかることをお勧めします)

 長い待ち時間を経て、新たな主治医の先生と初対面し、そのまま診察を受けた。その主治医の先生は少し上から目線で話すところがあったり、物事をすぐに決めたがるところはあるようだったけど、言うべきことをハッキリ言ってくれるので僕にとっては信頼できた。診察時、その先生からは次のような事を言われた。

 

  • (病院から引き継いだ採血結果を見たところ)もしも再生不良性貧血やったらステージ4(重症)ちゃうかな?」
  • 「このままほっといたら死にます」
  • 「記録は引き継いでいるけど、それを鵜呑みには出来へんから、また一から再検査をします」
  • 「入院?!いや入院はないで~!入院しても暇なだけやで~。これからは一週間に一回来てください。で、その時に血液検査と血小板の輸血をしましょう」
  • 「入院は治療が始まってからになる」
  • 「40歳未満だと造血幹細胞移植(骨髄移植)の方が成功率が高い。けど、40歳以上になると下がって免疫抑制療法の方が効きやすくなる。しんさんはまだ若いから通常は移植を考える」
  • 「移植した患者の1割が拒絶反応で死にます。後遺症が残ることもあるし。けどこれだけはどうなるかわからない。やってよかったって思うのも後悔するのも後でわかることやから」
  • 「臓器の提供者にも後遺症が残るリスクがあります」
  • 「移植は臓器提供者とHLA(白血球のタイプ)が一致してる必要がある。けど、まず両親とは一致することがなくて、一番一致しやすい兄弟姉妹でも4分の1の確率しか一致しない」
  • 「HLA検査は保険適応外。ここでは一人3万円でできる(場所によって数万のバラツキがある様子。以前の病院では一人8万円と言われていた)」
  • 「手洗いうがいもしっかりして、怪我とか感染症には徹底的に気を付けるようにしてください。人混みは避けてください」

 

 主治医の先生からは上記のように多くの説明を受けた。そして、その場で「どうします?移植します?免疫抑制療法にします?」と僕に決断を迫っていた。けど、こんな大切なことをその場ですぐに決めれる訳がなかった。僕は死ぬことは全く怖くなかった。でも、移植の選択をしたために兄弟姉妹に重大な後遺症が残ったり、痛みを伴わせることが嫌だった。だから、移植には少し躊躇していた。そんな簡単に決断できる訳がなかった。

 

造血幹細胞移植へ向けて

 結局、移植する方向で進めるかを決めるのにはドナーになるかもしれない兄弟の意見も大事なので、まずは兄にも電話で確認することにした。でも、きっと僕から直接確認したとすれば、本当は嫌でも「いいよ」と言うしかないのではと思ったので、一旦、親の方から兄に確認してもらうことにした。結果、兄は「骨髄なんかいくらでもあげるよ」と言っていた、とのことだった。正直、僕は、この時点で何度も「死」について考えてきたこともあって、死ぬこともある程度覚悟し、受け入れるよう心の準備もしていたので怖さもなくなっていた(いや、死ぬことに対して実感がわいていなかっただけかもしれない)。けれど、兄の言葉で「自分の命は自分だけのものじゃないんだなぁ」「生きないとなぁ」と思った。兄が本当に僕の事を想ってドナーになることをも許してくれている様子だったので、移植も視野に入れて考えることにした。そのように主治医の先生に伝えると、やはり一度決まると展開が早くて、その日のうちに、採血検査、骨髄生検、内臓機能、呼吸機能など様々な検査をすることになった(下に治療までの流れをまとめてみました)

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HLA検査を受けてみて

 まだハッキリと移植をするか決めていなかったけど、とりあえず兄のHLAと自分のHLAが一致するか検査してもらうことにした。その時に言われたHLA検査の方法は2つ。一つ目は直接病院にて直接検査をする方法。二つ目は病院に来ずとも、自分で口内にある組織をとって機関に郵送して出来る方法。HLA検査をすると決まってから翌週、兄は一つ目の方法で、つまり、わざわざ午前中の仕事を休んで病院まで来て検査をしにきてくれたのだった。その時はどんな検査をするのかまでは具体的に聞けていなかったので、「腰から太い針を刺すのではないか」などと色々と想像を膨らませていたが、実際は採血一本で済む簡単なものだった。でも、検査を終えてからがまた長く、結果が出るのに2・3週間はかかると言われた。だから待った。その間、もしもHLAが一致すれば移植はどうするかについてずっと考えていた。こういう命に関わる選択というのは中々する機会がなかったので、たとえ開き直ってた僕でさえ思いの外疲れるものだった。結局のところ、どの選択をすれば正解かなんて全くわからないし、ネットに載ってる情報も胡散臭いものばかりで信頼できるものじゃなかった。何より周りがうろたえたり「こうすればどうか」と提案してくると本当は自分が何をしたかったのかがわからなくなって、考えが堂々巡りとなり、余計に疲れた。でもまずはHLA検査の結果次第なので、とりあえず待った。待つしかなかった。

 

自宅療養中の生活

 HLA検査の結果を待っている間は、自宅療養という形でほとんど家の中に籠っていた。一応感染症のリスクがあるため、人の多いところに行くことは出来ず。大阪の中心部に友達が多い自分にとっては友達とも会うこともなくなり、ほとんど近所のお店の人か病院関係者か家族としか話すことがなくなっていた。気づけば完全なる昼夜逆転の生活になっており、昼の13時に起きて明け方の6時に寝るという生活リズムが習慣づいていた。どうしても誰かと会う必要のある時にはわざわざ家まできてもらった。職場の上司に至っては、休職などの手続きのため、遥々一時間以上かけて自宅まで来てくださったりした(本当に感謝の気持ちでいっぱいです...)。それに、友達とは直接会わずともできるオンライン上で“クトゥルフ神話TRPG”をして遊んだりもした。これまで何度も計画を立てては中止になっていたので、実質数か月振り?くらいだった。でも、検査結果が出る日が近くなるにつれて少し不安になり、遊ぶのにもテンションが上がらなくなることもあった。また、昔に読んだヴィクトール.E.フランクルの「夜と霧」やE.キューブラー・ロスの「死ぬ瞬間」を思い出して、「せっかくならば闘病中の出来事などを詳しく残すといつか役に立つのでは」と思うに至った僕は、この頃よりブログも書き始めた。病院へは週に一回、待ち時間も合わせて毎回半日以上は潰れることになったけど、休むことなく行った。その間には、以前行った内臓や呼吸器などの検査結果がでて全く異常がないことがわかったり、再び「再生不良性貧血だろう」と何度目かの同じ診断が出たりした。一方で、血小板の輸血ではアレルギーが出て全身を蚊に刺されたみたいな腫れと痒みに襲われたこともあった。そのせいで輸血前には毎回、予防のためのステロイドを打つことになった。その時はまだ、輸血前に必ず打つことになってしまったこのステロイド剤のせいで、後々再入院した時、急激に太ったり顔が異様に丸くなってしまう(ムーンフェイスというらしい)ことになるとは、全く想像していなかった。

 

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写真:職場の上司から頂いたお花とお菓子です。花言葉は「元気」らしいです(泣)。お花などは多くの上司や同僚で負担しあって買ってくださったみたいです。上司からは温かい励ましのお言葉までいただきました。保険などについても僕が最大限活用できるように調べてくださった上に、すごくご丁寧にかつ詳しく説明頂きました。僕の事をすごく心配してくださっているのが伝わってきました。感謝しても感謝しきれません。心から、本当の本当に、ありがとうございます。。

 

HLA検査の結果

 HLA検査をしてから二週間後、ついに結果が出た。主治医の先生は僕と顔を合わせるや「え~、一致してません」と凄く軽いノリで言った。その後、姉にもHLA検査(これは口内に棒を軽く擦って組織をとる簡単な検査)をしてもらったが、姉もまた同じく一致せず。でも、もともと合う可能性は低いし、それを覚悟していたので全くショックではなかった。病気が発覚して50日後の6月27日、ようやく治療の方向が決まりつつあった。残念ながらHLAは一致していなかったけど、これまで思いの他、全くの進展もなく時間だけが過ぎて行っていたので、「やっと治療方法が決まった...」「免疫抑制療法に決まったんだなぁ」と見通しが持てたことにむしろ少しホッとした。

 でも、HLAが一致していないと伝えられたその日、今度は主治医の先生より「実は治験の話がありまして」と新薬の臨床試験について提案された。何度も言うのもなんだけど、その時の僕の主治医の先生は物事をすぐに決めたがるところがある。というわけで、やっぱり今回も再び、その場で「どうします?従来の”免疫抑制療法”を受けます?”治験による新薬の治療”を受けます?」と治療法の決断を迫られたのだった...(デジャブかよ...)。そうして、「やっと治療方法が決まった...」と安堵したのもつかの間、今度は従来の免疫抑制療法を受けるか、治験による新薬治療を受けるか、という治療方法の選択に、再び悩まされることになったのだった(ほんと、選択の多いこと...)

 

 次回、治験をどうするか?とか、そういう話ができればと思っています。治療開始の話までもうすぐです!

闘病生活日記③ ~急遽退院することになった話~


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前回のブログ(闘病生活日記② ~入院生活が始まって間もない時の話~)の続きです。

 

集団部屋での生活

 2019年5月17日、僕は個室部屋から4人の集団部屋へ移動することになった。

 その部屋の中は絶妙に薄暗く、所々汚れていて、カーテンで仕切られた自分の空間はわずか畳2・3畳分くらいしかなくて少し窮屈だった。部屋の中は患者さんやお見舞いに来た方、看護師さんの声が飛び交っていて騒がしかった。頻繁にゲップやおならの音、痰を吐く音などが聞こえていた。やや潔癖症の僕にとっては正直辛かったので、あたり一面に消臭剤をまき散らしてはほぼ一日中耳栓をしながら布団の中に潜り込んで生活するようになった。もともと神経質な性格なので食事でさえ喉が通りにくくなっていた。僕は他の病棟から移ってきたわけであるが、看護師さんの中であまり引継ぎがされていなかったようで、一から部屋やお風呂の説明をされたり、僕は普段から平熱が高いのに関わらず検温の際に37度程度の熱であれば毎回「熱がありますね」と言われたり、中には入院自体が初めてだろうと勘違いされている方もいた。心理士として働いてきた自分は引継ぎには敏感になっていたので、尚更雑な扱いをされている気分になってしまっていた。もちろん、多くの患者を担当する看護師さんは全く悪くなってくて、今でもすごく感謝している。ただ、どうしても看護師さんは忙しかったりするので、それだけはまぁ...仕方がない。

 ちなみに、その後はまた別の集団部屋で入院することになったのだが、そこは静かですごく快適だった。当たり前のことだが、その入院先によって大きく変わるらしかった。

 

再生不良性貧血という難病

 部屋を移動したその日、精密検査の結果が返ってきた。どうやら僕は骨髄異形成症候群と再生不良性貧血がちょうど重なるところにある疾患だそうで、明確に区別できないが、「たぶん再生不良性貧血だろう」とのことだった(再生不良性貧血と骨髄異形成症候群の病態については”闘病生活日記②”を参照願います)。また、検査前は「もし再生不良性貧血であれば軽症だろう」と言われていたけど、実際に検査した後は「ステージ3(やや重症)」だと主治医より告げられた(更に後にはステージ4重症ではないか、と言われた)

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 再生不良性貧血は難病である。けれど、それを聞いて僕と家族は喜んだ。というのも、再生不良性貧血であれば、難病指定を受けることができて医療の補助を受けられるからだ。それに以前に主治医の先生も「骨髄異形成症候群の方が厄介」と言っていた。実は僕は1年半前まで九州地方に住んでいた。が、その頃にも健康診断に引っ掛かり、検査した結果「骨髄異形成症候群」だと診断された過去がある。でも、あまりにもその時の主治医が上から目線で人を小馬鹿にするタイプの人だったし、そもそもその時は公務員でも無かった僕は残業や休日出勤などで病院に行く時間が勿体なく感じていて、病院に行かずじまいだった。結局その後、僕は退職して関西の実家に戻って数か月が経過してから引きこもりの方の支援に携わるアルバイトをしたり、最終的には市役所で子育て相談員として働くことになった。そして、関西に帰ってきたために旧友と遊ぶ機会も増えて、そうしてその旧友より「しんくん、黄色くなったな」と言われて病院に行った結果「再生不良性貧血だろう」と診断されたわけだった。もしも「骨髄異形成症候群」だとされていた2年前に緊急入院をしていた難病指定は受けられなかっただろう。いやそれどころか、病気が進行していることにさえ自分も含めて誰からも気づかれず、九州という離れた土地の職場にて一人宿直中に野垂れ死んでいたかもしれない。

 

色んな保険とか

 ついでながら、難病申請以外にも経済的に助かったことがいくつかある。

 実のところ、緊急入院する前日も様々な仕事が入ってきて、スケジュールを立てたばかりだった。けれど、入院を機にそれらも全てできなくなった。一度職場に電話した時、僕は「入院がどれくらいになりそうかわかったらまた連絡ください」「病名がわかったら教えてください」と言われていた。なので、大まかな病名がわかった今、再び職場へ電話かけた。僕は電話で「入院最短三か月になりそうです」「再生不良性貧血だと思います」と言ったが、上司は迷惑がる様子もなく真剣な声色で「前からしんどくなかった?」「しんどくても無理してたんじゃない?」「ゆっくり休んでね」と言ってくれたのだった。後々、僕は来年3月に契約が切れるまでの1年近くの間、職場に籍を置いてくれることになったし、その間、有難いことに傷病手当も受けられることになった(この話はまた後々に詳しく書きます)。もしも未だに九州の町にある小さな職場で働いていて、そこで緊急入院をしていたとすれば、ここまでの手厚い援助は受けられなかったであろうし、その職場の性格上、退職を迫られてもおかしくなかったと思う。

 また、その職場を退職した後、僕には無職の期間やアルバイトの安めの給料で働いて生計を立てていたこともあった。これがまたラッキーで、もしも数か月前に高い給料で働いていたらその分医療費も高く払わないといけなかったらしい。しかも、無職の時やアルバイト時代に緊急入院をしていたら保険料の関係で苦しんでいただろう。一方で、今は公務員として働いていて、保険料も確りと払えていたので保険にも困ることはなく、治療費も安くて済んだ。難病指定の助成制度だけではなく、健康保険も高額療養費も休職手当も、この時期というタイミングで入院できたために活用できた。そう考えると本当に運がよかったと思う(ほんと、これらの制度に助けられました)

 もしも入院するタイミングによれば、「骨髄異形成症候群」ということで難病指定も受けられなかったろうし、遠くにいる家族とも会えず心配をかけていただろうし、法人の時期や無職の時期に入院していたら健康保険や傷病手当はどうなっていたことかわからないし、退職を迫られていたかもしれないし、余分に医療費を払うことになっていたかもしれないし、そもそも一人で野垂れ死んでいたかもしれない。僕はこの入院環境にストレスを感じ始めていたけど、このタイミングで入院出来たことには心底感謝した。

 

免疫抑制療法という治療

―少し話が脱線したので戻りますー

 僕はこれまで主治医より「造血幹細胞移植」を第一に実施するとして治療方針が立てられていたが、精密検査の結果が出た後には何故か「今週から免疫抑制療法を行います」という流れになっていた(この点について理由は忘れたか、聞き逃したので正直なところよく理解していません。失敬)一度決まると展開が早いのが病院。すぐに治療のスケジュールが立てられていて、その数日後には免疫抑制療法を実施するという方向で話が進んでいった。

 免疫抑制療法(ATG)は、造血幹細胞を傷害しているリンパ球を抑えて造血を回復させる治療法らしい。服薬によって一時的にあらゆる血液の数値が極端に下がる副作用があり、感染症にもかかりやすくなるため注意が必要となる。それを聞いた母は、“集団部屋でも大丈夫なのだろうか”“集団部屋となると感染症のリスクはどうなのだろうか”と心配していた。主治医に聞いても心配はないと言っていたが、母はどうしても気がかりな様子で、僕が知らない間に何故かより専門的な病院に転院させたいという話を主治医にしていたらしかった。僕は次々に話を進められていく状況が気持ち悪くさえ感じ、母によく怒ってその気落ちを伝えた。一方で僕は主治医の先生を信頼していたので心配はしていなかったが、辺りから聞こえるゲップや痰を吐く音、おならの臭いなどが不快だったので、あまりこの部屋で長居はしたくなかった。そのストレスがあったので、家族が面会に来た時にはキツく当たった。内心、家族が頻繁に面会に来ること自体が妙なプレッシャーで“お前はひどい病気なのだ”と直面化されている気分になったし、ただ一人だけ休んでいるのにわざわざ休みを縫ってまで面会に来てくれていることに後ろめたさがあった。親や姉には「来やんといてくれ。迷惑やから」と本気でイライラをぶつけることもあった。そんなストレスフルで決して清潔とは言えない状況であるので、感染症の事を考えると心配になるのも当然のことだと今になって思う。

 結局、話は次々と進み、造血幹細胞移植も受けられる近隣の大学病院へ転院することになった。これで転院するのは実家の近くの小さな民間の病院、少し離れた血液内科のある今の市立病院に次いで3件目ということになる。やっぱり一度転院が決まるとその後の展開が非常に早くて、次の日の朝には荷物をまとめて今の入院先からそそくさと出ていくことになった。それは、免疫抑制療法を始める予定だった前日の出来事だった。

 

難病指定病院への転院

 難病指定病院(指定医療機関)で治療を受けると、難病患者は助成を受けることができる。僕が新しく転院した先の大学病院は入院していた市民病院よりも更に大きな難病指定病院であった。そこにはより専門的な機器や先生が揃っていたが、大きな病院であるということはそれ程に患者も多く、人がごった返していて、おまけに待ち時間も長いという現状がついて回る。朝から採血などの検査のために長い待ち時間を要した後、ようやく新たな主治医との顔合わせをし、診察を受けることができた。僕はこれまで当時の主治医より「最短3か月の入院が必要」「他の病院へ転院して入院をしましょう」と聞かされていたので、入院をするつもりでいた。しかし、その新たな主治医の先生からは、「入院?!いや入院はないで~!入院しても暇なだけやでw」とコテコテの関西弁で、しかも鼻で笑いながら言われた。しかも、自分の年齢(40歳未満)であれば第一義的に血縁者のドナーによる造血幹細胞移植による治療が通常は採用されるらしく、治療方針としても再び造血幹細胞移植を目指すことになった。今まで聞かされてきたこととはまるで違いすぎて、若干混乱した。再生不良性貧血の治療といっても、その病院や先生によって方針は大きく変わるようだった。

 転院したので、再度何もかも一から検査をし直すことになった。それで何度目かの“腰からボールペンほどの針を刺して骨髄の組織を削り取る検査”や肺、心臓、呼吸器などの検査もした。この頃には検査にはだいぶ慣れていて、腰に刺す針を直視できるまでになった。凄く太かった...。数日後、検査の結果が出た。そこでも「おそらく再生不良性貧血だろう」とのことで言われた。一方でこれまでは“ステージ3(やや重症)”だと言われていたのが「好中球が493しかないから、実質ほぼステージ4(重症)」だと言われた。

 という訳で、以降は実家から病院に週一回の頻度で血液検査と輸血をするために通院しながら、血縁者のドナーによる造血幹細胞移植が可能かを調べるという治療方針で進めることになった。緊急入院をした日より13日後の2019年5月21日、今度は急遽退院して凡そ3か月間に渡る自宅での療養生活が始まったのだった(内心、ストレスフルな入院環境から逃れられたことにホッとした)

 

PS. もしも治療の過程を詳しく知りたい方はTwitterにて「#療養生活記録」のタグで検索すると詳しめに記載しているので是非参考に見てみてください。

 

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写真:大学時代の友達が面会に来た時に持ってきてくれたお菓子達です。沢山話せて元気をもらえました!本当にありがとう!

 

 ~つづく~ 次回、自宅療養生活と造血幹細胞移植の話

闘病生活日記② ~入院生活が始まって間もない時の話~

 

 前回のブログ(闘病生活日記① ~緊急入院した話~)の続きです。

 

先生からの病状説明と精密検査

 2019年5月9日の木曜日、僕は緊急入院した。運よく集団部屋が空いていなかったこともあり、僕は病棟7階の隅にある静かな個室部屋で入院することになった。部屋の内装は全体的に温かみのある飴色をしていて、北側の壁を囲む大きな窓からは大阪府内の街並みが展望できた。夜になると無数の灯りがよりいっそう風景を煌びやかに輝かせて見せた。こういった環境だったこともあり、最初の数日間は入院したことにも悲嘆することもなく過ごせた。むしろ現実感が飛んでしまっていたのと、急な環境の変化で少し躁状態になっていたのとで、テンションが上がっているくらいだった。入院部屋に移動して間もなく母がやってきた。同時に、主治医の先生から病状について説明された。要約すると以下のようであった。

 まず、僕は血小板と赤血球と白血球の数が非常に少ない。血小板には血を固めてカサブタを作る役割がある。なので、もしそれが少なくなれば出血しやすくなったり、怪我が治りにくくなる。また、赤血球には酸素を運ぶ役割があるので、もしもそれが少なくなったら息切れや貧血が起こりやすくなる。加えて、白血球には体内に入った細菌をやっつける役割があるので、もしも少なくなったら感染症にかかるリスクが高くなる(とりわけ血小板の数が特に少なかった僕は、主治医より「もし脳内で出血したら手の施しようがない」と言われていた。その為、まずは血小板の輸血の措置をしていた)。また、診断については「現段階ではわからない」とのこと。具体的には、“骨髄異形成症候群 (機能しない血液が作られてしまう) ”という病気か、“再生不良性貧血(血液自体が作られない)”という病気であるそうだが、どちらの病気であるかは精密検査を行わないとわからないらしかった(一応、下にウィキペディアでの説明を載せておきます...医学書を読むのが面倒なのでウィキペディアで許してください...)

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 加えて、「今後最短3か月の入院が必要」とも言っていた。もしも完治を目指すなら、造血幹細胞移植(骨髄移植)の選択をすることになるそう。特に、移植は40歳未満だと成功率が上がるため、主治医の先生は「しんさんはまだ若いから完治を目指したい」と言っていた。しかし、造血幹細胞移植の選択をする場合、今の病院ではできないため、さらに専門的な病院に転院することになるとも言っていた。また、この移植を実施するにはHLA(白血球のタイプ)が一致したドナーが必要になるし、それも、親はまず一致することがなく、兄弟でも4分の1程度の確率でしか一致しないようだった。しかも、移植後は1割の人が実施後に拒否反応を起こして亡くなるというリスクがあるらしい。他にも、免疫抑制療法という投薬治療の方法もあるが、この時はその選択はなかった。

 そういった医師の話であったが、母も僕と同じく「なんでやろ?実感が沸かへん」と言って淡々としていた。僕はお金のことだけが少し心配だったものの、相変わらず実感が沸かず平気だった。けれど、入院から3日程度経過した時くらいから徐々に実感が沸いてきて、少し怖くなってきた。正確には、死ぬこと自体は全く怖くなかったけど、移植や精密検査の痛みに対する恐怖だったり、もし僕が死んだ後に家族や友人が悲しんだりすることや、移植に失敗して重篤な後遺症(例えば植物人間になるとか?)が残るかもしれないことや、ドナーを提供してくれた兄弟に後遺症が残るといった想像をしてしまい怖くなった。その時の僕の主治医は、病状や治療などを説明するときには何かにつけて逐一恐怖を煽るような言い方をする人だったので尚更だ。ある日、主治医から「明日精密検査をします」「腰からボールペンの芯くらいの針を刺して骨髄を“削り取る”検査をします」と言われた僕は、“削り取る”という表現が怖くて、一睡も寝付けなかったこともあった。しかし、結局、実際の精密検査はそこまで痛くなく一瞬で終わったのだった。

 

個室部屋での入院生活

 入院したばかりの頃は、主治医の先生や看護師さんが頻繁に体温や血圧を測りにきたり、輸血の様子を見に来たりしてくれたのでそこまで退屈もしなかった(時に看護師さんの子育て相談や他の患者さんへの相談にのったりして過ごしていた)。けれど、僕は、あまり怖がっているところや落ち込んでいるところを見せたくなかったので、医師や看護師の前で平気そうに振舞ううちに、医師や看護師さんは「元気そう。大丈夫そうだね」と言って、あまり部屋に来なくなった。そういう経緯で、特に話す人もいなくなり、僕は毎日横になりながら携帯電話を見るか、パソコンでユーチューブを見続ける生活になっていった。暇になってきたこともあり、僕は入院開始から4日後か5日後くらいして、友人に病気のことを言うことにした。でも、直接伝えたら気を使わせてしまうかもしれないと思ったので、LINEのタイムラインで「暇だからきて~」的に軽そうな内容で報告してみた。その結果、数名の友人から心配の電話やLINEをいただいた。その友人知人の反応はまちまちで、この事態を軽く受け止める方もいたら真剣に受け止めてくれる方もいた。お見舞いも、“大した事ないだろう”というノリで病室にて好き放題して帰った友人もいれば、沢山のお菓子などをもって来てくれた友人もいた。親戚も見舞いに来てくれた。なんにせよ沢山の人からの励ましの言葉に元気をもらった。

 数日後、僕は暇つぶしとして友人を誘ってオンラインでのクトゥルフ神話TRPGをしようと計画を立て始めた。オンラインであればパソコンがあれば遊べるので、暇つぶしになると思ったからだ。しかし、突如集団部屋に空きができたという知らせが入った。そして結局、その日のうちに個室だったこの部屋から集団部屋へ移動することになった。集団部屋であるので、もちろんクトゥルフ神話TRPG等はできない。この遊びは入院する前にも計画したけど中止になった経緯があったので今回でポシャったのは2回目だった。そそくさと荷物をまとめて新たな部屋に移動した。実際に部屋に行くと、早速何とも言えない鼻につく臭いがした。その部屋は、個室部屋とは全く異なり薄暗くて所々汚れていた。そこは4人部屋であり、カーテンで仕切られた自分の空間は畳2畳分くらいしかなかった。僕以外全員は高齢の方だった。ベッドで横になって寝ようとしてもカーテンの仕切りの奥から頻繁にゲップやおならの音、痰を吐く音などが聞こえていたし、患者さん、お見舞いに来た方、看護師さんの声が飛び交っていて騒がしく、全く眠れなかった。ただでさえ潔癖症なのに、一度個室を体験した自分にとってはより気が狂いそうな環境だった。入院から9日目である5月17日、僕はあたり一面に消臭スプレーをまき散らしてはほぼ一日中耳栓をしながら布団の中に潜り込む生活をするようになったのだった。入院生活はその入院環境によって大きく左右された。

 また、その日の昼頃に、主治医より、以前行こなった“腰からボールペンくらいの針を刺して骨髄の組織を削り取る検査”の結果を聞かせてもらった。どうやら、「再生不良性貧血だろう」とのことだった(詳細は次回のブログで書きます)

 

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写真:個室部屋から見た景色

 

 ~つづく~

闘病生活日記① ~緊急入院した話~

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    これは、再生不良性貧血(難病60)という病気で緊急入院した僕の話です。 

 

僕の病気がわかった理由

 2019年4月21日の日曜日、5年ぶりに会った大学院時代からの旧友より、再会早々「しん君、なんか黄色くなったな」と言われた。それに対し、僕は「黄色くなったってなんやねんwww」とヘラヘラ笑っていた。他の友人も「ミカンの食べ過ぎちゃう?www」と冗談を言ってたし、自分自身でも全く何ら自覚症状がなかったからだ。その18日後、緊急入院することになった。

 当時(というか今現在も)、僕は“クトゥルフ神話TRPG”という遊びに熱中していた。以前に1か月だけアルバイトとして引きこもりの方の支援をしていたが、そこではコミュニケーションツールとしてこの遊びが行われていて、支援者側の自分も魅せられていた。基本的に出不精の僕は自宅と職場を往復するだけの生活をしていたけど、新たな趣味を得た昨今、あらゆる友人を巻き込まずにはいられなかった。旧友より「黄色くなったな」と言われたその日も、その遊びをするために元職場の仲間と大学院時代の同期と集まっていたのだった。

 自宅に帰ってからは、“おもしろネタ”として家族に「黄色くなったらしい」話をしてみせた。けど、やっぱり身近で毎日顔を合わせている家族は顔色の変化には気づいていないようだったし、その後も僕は通常通り仕事に通っていた。10日間という稀にみる長いゴールデンウィークも、旧友とあべのハルカスの頂上で騒いだり、旧友と一夜漬けでスマブラをしたり、元職場の仲間たちと人狼ゲームの集会に参加したり、平成最後の昭和の日には大正駅でR-1飲んだりと、遊びに耽っていた。けど、あの時以来、特に誰からも顔色について指摘されることはなかった。一方で、長い連休最後の日、珍しく実家に家族が収集していたので、皆で温泉に入りに行くことになった。そして温泉に入った際、これまで何も言わなかった父が、温泉での僕の身体を見て「やっぱ一人だけ黄色かった。病院行ったほうがいい」と言ったのだった。僕は何だか風貌をバカにされた気がして「うっさい!」と怒った。この時僕は、ネットに記載されていた「野菜ジュースに含まれるβカロチンの採りすぎで顔が黄色くなる」という情報を都合良く信じていた。

 ゴールデンウィーク明けの初日、僕は通常通り仕事に行った。でも、妙に身体がしんどかった。連休明けだから身体が慣れていないだけだろうと思って、職場の仲間にも「ゴールデンウィーク明けで妙に疲れてる」とさりげなく弱音を吐いていた。仕事が終わったその日の夜、黄色い見た目が嫌だった僕は近所の病院を受診してみた。そこの病院では数年前にもインフルエンザでお世話になった優しそうなおじいちゃんの医師が担当してくれた。実は過去にお世話になった時、すでに血液の異常を指摘されていたらしい。でも、治療を受けることはなかった(これぞ自業自得)。病院では血圧測定や採血などの簡単な検査をした。もしも内臓の異常であれば目の強膜も黄色くなるらしいけど、僕には該当していなかった。「しっかり調べたほうがいい」と真剣に言う担当医師に対し、それでもなお「野菜ジュースを飲みすぎたら黄色くなるって聞いたことがあって」と訴え続けていた。内心、何らかの重い病気が潜んでいる可能性もあることはわかってたけど、認めたくなかった。翌日に出た検査の結果、通常は15万8千から34万8千あるはずの血小板数が7千しかないと言われた。

 

緊急入院するまで

 「早く他の病院に診てもらったほうがいい。ここでは検査器具も揃ってないし、この症例の場合、より専門的な医師でないと診れないだろう」と言われた。もし通院するなら比較的近くにある病院がいいと思った僕は近所の市立病院を希望した。でも、お医者さんはその病院との関りがないらしく、紹介状も書けないとのことだった。なので、そのまた翌日(2019年5月9日の木曜日)の12時過ぎ頃、紹介状も持たずに希望先の血液内科のある市立病院に行った。しかし、血液内科の医師は10時に勤務を終えるらしく、紹介状すら持っていなかった僕は受付嬢さんより厄介払いされた。でも、わざわざ電車にまで乗ってきた僕は何もせず帰ることに納得できず、15分近く駄々をこねた。どうにか受付嬢さんには血液内科の代わりに救急診療科を紹介してもらった。でも、救急診療科の別の受付嬢さんにも同じく厄介払いされた。

 再び15分ほど駄々をこね続けていると、医療用白衣を身にまとった女性が来て言った。「こちらにどうぞ」。僕は白い机と椅子とパソコンだけがある狭い診察室に案内された。そして、ここに来た経緯を伝え、昨日貰った検査結果を渡した。しかし、その医師は「いつか入院するかもしれないけど今日は大丈夫でしょう。また別日に予約してきてください」と言った。なので、診察が終わった後、僕は納得して清算を終えるまで大人しく待っていた。そのまた10分後、別の男性医師が来て「しんさん、いいですか」と僕を呼んだ。再び診察室に入ると、医師から「見落としていた。よく見たら血小板が7千しかない」「血小板が少なくなると、血が止まりにくくなったり出血しやすくなる」「もしも頭の中で少しでも出血すれば手の施しようがない」「このままだと死にます」「これから入院します」と言われた。その瞬間、何かがぶっ飛んだように現実味も感情もなくなった。「これが解離かなぁ」と思った。

    気づけば寝台車に寝かせられ、されるがまま広い医務室に運ばれ、ドラマによくある「いち、にぃ、さん、はい!」の合図とともに大きな青い医療用寝台へ身体を持ち上げて移動させられ、計7、8名くらい?いる看護士さんやお医者さんに囲まれ、両腕から何本もの採血をされ、皆に見守られながら半ケツ状態になって腰から針を刺して骨髄液を抜かれ、かと思えばそのまま入院部屋に運ばれ、血小板と赤血球の輸血をされた。あまりにも唐突すぎて実感が沸かず、頭が空っぽの無心状態で、現実味もなく、ただただ“あぁ、仕事どうしよう、、皆に迷惑かける、、最悪だ、、”と思うばかりだった。何ら感情もなく寝台で天井を見上げながら職場に謝罪の電話をしていた。職場の上司はとても驚いた様子だったが、「無理しないでゆっくり休んでね」と真剣な声色で言ってくれた。また、(これは後で知ったことだが)その時に採血などを担当してくれ、夜遅くまで付き添ってくれた血液内科の医師は、時間外であるにも関わらず、わざわざ自分の為に病院に駆けつけてくれたらしかった。

 こうして、仕事の予定も遊びの予定も全部吹き飛び、ただただベッドの上で寝続ける入院生活が始まったのでした。

 

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写真:血小板。黄色いです。

 

~つづく~

 

追伸) 皆と会う機会を提供してくれた友人、僕の顔色に気づいて下さった友人、励まして下さった友人、支えて下さった家族、これまで丁寧に僕の意思を尊重して治療を進めてくださっている先生、非常にご迷惑をかけているにも関わらずご理解いただいている職場の仲間に心より感謝申し上げます。

 

自閉症の子どもの世界を知るために

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はじめに

自閉症といえば…

 聴覚過敏があり、見通しを持つのが苦手で、視覚優位の為に視覚的な手掛かりが必要で、助けの求め方がわからず、中でも予測の難しい人の動きに混乱させられ、拘りもみられる…。授業で学ぶような言葉だけを並べるとそんな感じかもしれません。でも、そんな言葉だけ並べたところで、実際は自閉症といっても人によって色んな特性がありますし、妙にネガティブな印象だけが先行してしまい、リアルにイメージできる人は少ないと思います。
 といえども、自閉症スペクトラムと言われるように、重度の自閉症圏の人も軽度の自閉症圏の人も、もっと言えばその診断から遠い人も、程度の差はあれ誰しもが共通の傾向を持っていると言われていたりします。ともすれば、少し工夫するだけで、「障害」のない人が「障害」のある人の世界を理解することは可能なのではないか。
 というわけで、自閉症の子どもの世界を、特に何ら診断を受けてない人の世界に当てはめて考えてみた自閉症の子どもの世界を少しでもイメージするのに役立つのではないかと閃き、ブログに書こうと思った次第です。


自閉症の子どもの世界

 唐突ですが、以下の場面について、想像してください。

  ある日レストランに行きました。当然ながら、まず靴を脱いで、それを靴箱に入れようと思います。しかし、靴箱のらしきものが見当たりません。そういや、ここは外国料理専門のレストラン。土足で上がるのが常識だろうと思って靴を脱がずに上がりました。すると、何故か店員に「土足厳禁なう」と注意されてしまいました。
 どうにか席につきました。しかし、厨房の音、お客さんの会話、店内を流れる音楽が絡み合って騒がしく落ち着きません。
 しかも店内には時計もなく、そういう時に限って自慢の腕時計も故障して使い物になりません。時間を聞くにも店員があちらこちらを動き回っており、声を掛けるタイミングがわかりません。コードレスチャイム(テーブルに置かれてる店員を呼ぶやつ)も見当たりません。
 とりあえず、メニューに目を通してみました。しかし、やはり外国料理専門のレストランということもあり、小難しい名前の料理ばかりが並んで記載されています。しかも、料理自体の写真がないので、どんな料理なのか全く検討がつきません。
 適当に頼んだ料理が美味しくて安心しました。しかし量の少ないこと。他の料理を頼むにも一か八かになるので、無難に何度も同じ料理を頼むことにしました。しかし、何故か店員に「同じ料理ばかり頼むな!品切れするやないかい!」と怒られました。ついに帰りたい気持ちでいっぱいになってしまいましたが、待ち合わせしている恋人は気分屋さんでもあるのでいつやってくるのかわからず身動きが取れません。どうやら携帯電話を使うにも電波が入ってきません。あぁ…。

 これは、誰しもが結構なストレスとして感じられる環境だと思います。しかし、実は、自閉症傾向のある子どもの世界を想像して記載したものです(もちろん、その子の特性はその子によって違うので一概には言えない点について留意願います)。この世界がいわゆる「障害」のない人々にとってのみ都合よく作られているためにイメージがつきにくいかもですが、自閉症の子どもは上記と似たような世界の中で日々を過ごしているといっても過言ではないのです。
 例えば、靴箱がなければ、どうすればわからなくなるのは当然のことですし、聴覚過敏のある子にとっては騒がしい店内は苦痛でしかありません。もしも言葉などで意思を表現する方法が絶たれていれば、困ったときに助けを求めることも出来なくなってしまいます。時計の読み方がわからなければ、「恋人はいつ来るのだろうか・・・」と見通しが持てず、不安になるのも当然のことです。自閉症の子どもにとっては、そういう複雑な世界の中で、ごく因果関係がわかりやすい行動(こだわり行動)を繰り返すことが安心感に繋がるのも理解できます。


工夫できることを探そう!
 では、自分たちはどのような工夫が出来るのでしょうか。実は、今は発達障害への理解も進み、様々な支援の方法やツールが提唱されてたりもします。


 例えば、「視覚支援」「構造化」という方法もあります。これは、空間を明確かつ視覚的にわかるように提示するというものです。靴箱の例を挙げると、明確に靴箱とわかる形で靴箱を準備しておくことです。確りと箱を準備し、場合によれば「靴箱」と表記して示したり、何なら靴を入れても良い人の名前を表記するとなお親切かもしれません。よく子ども用のトイレに入ったすぐ足元に足跡の形をした型が張られているのを見たことがあるかもしれません。それも「ここでスリッパを脱ぎましょうね」と具体的に知らせる為の視覚支援の一つだと言えます。
 加えて、タイムタイマーというのもあります。これは、時間をわかりやすくメモリや絵で目に見える形で提示してくれるタイマーのことです。自閉症の子どもの中には時間などの目には見えにくい抽象的な事柄を苦手とする方がいたりします。「少しだけ待って」て言われても、「少してどれくらいやねん」となりがちです。こういった場合には、具体的に「あと30秒待ってね」と伝える事が有効に働くことも。また、時計の針を見せて「長い針が3の所に来るまで」と伝えるのも有効で、それでも難しい場合は文字時計で示したり、それでもわからない場合はタイムタイマーや砂時計のようなもので示すことが大変有効に働くこともあるのです。その人の特徴にあった時間の伝え方が望まれます。
 スケジュールがわからない場合は、写真や絵を用いながら目に見える形で丁寧に伝えるのも有効です。しかし、伝えたスケジュールが急に変更することでかえって不安にさせてしまう可能性もあるので、予め予定が変更しうることも(場合によっては)説明しておく必要になります。少し複雑ですが、留意が必要です。
 また、視覚支援とは異なりますが、イヤーマフという用具もあります。これは、音をシャットアウトするために耳に装着するヘッドホンのような器具です。音に過敏な子どもは何ともない僅かな音でも不快な音に感じられる場合は少なくないので、そういった子にはイヤーマフは絶好のアイテムとなり得るのです。
 大切なのが、やはり助けを求めるタイミングや方法がわからない場合について。こういった場合も絵カードが役立ちます。「助けて」や「教えて」といった内容が伝わる絵カードを持ち歩き、いざという時に提示して伝えるわけです。言葉での表現が苦手な子には欠かせないアイテムになる得るわけです。幸い多くのレストランにはコードレスチャイムがあるので、それを押しさえすれば店員が来てくれてハイおしまいですが。僕らもそれが無かったら結構困るわけでして...それと同じです。
 最後に、拘り行動についてですが、基本は安心するために繰り返していることが多いようです。慣れた流れで毎回同じ反応が返ってくることに安心するのは誰でも同じなはずです(決まった料理を頼みたくなるのとそない変わらないと思います)。こういったこだわり行動がみられる場合は、他に代わる行動に置き換えることもできます。しかし、余程本人や周りにとって不利益となる場合を除いては、そのまま続けてもらうのが良いだろうと思います。大抵は安心感を得るために繰り返している場合が多いからです(誰の迷惑にもなってなかったら別にいいですよね?それに、変に正そうとすることでかえって他の拘りを増やしてしまうことが結構あります。時に受け入れるキャパも必要です)。

 

さいごに
 以上、自閉症の子どもの世界(想像にすぎないですが)と出来うる工夫について説明しました。最近では障害者差別解消法も制定されました。そのことより、当事者の方々への理解や支援も今後に期待されます。上記には様々なツールについても紹介しましたが、一番は人々の「理解」のあり方です。イヤーマフをつけるのも良いけども、その前に刺激の多い所を避ける等の支援方法もあることを忘れずに。また、周囲が確りと予定を守ったり、言語的にであっても分かりやすく具体的に伝えていくのが基礎になります。
 「障害」というものは環境側にあるのだ、という言葉がよく聞かれるようになりました。その子がその子のままで生活できるように、その子の能力を高めようとするだけでなく(自尊心の低下に結び付きがちです)、環境を整えることを検討するのも大変必要な支援なんだ、ということは意識していて損はないかと思います。
 以上、自戒の意味を込めて。


〈オススメ図書〉
佐々木正美(著)

 「アスペルガーを生きる子どもたちへ」

 「自閉症児のためのTEACCHハンドブック」 

佐藤剛(監)永井洋一/浜田昌義(編)

 「感覚統合Q&A 子どもの理解と援助のために」

児童福祉施設にて性加害行為のある子どもへのアプローチ

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    この度、はじめてブログを書かせていただきます、しん ゆうしと申します!私はこれまで児童福祉施設等で心理担当として勤務させていただいたので、その経験と知識を活かし、今回は、児童福祉施設にて性加害行為のある子どもへのアプローチについて説明できればと思います!稚拙でありかなり専門的な内容となっており難しいかもしれませんが、興味のある方は是非ご一読お願いいたします!

 

はじめに

  性加害者へのアプローチの一つに、心理教育プログラムがあります。これは、一般的に想像されるカウンセリングなどとは異なり、治療教育的な要素が強い方法となります。誰がこういった直接的なプログラムの提供を担当するかについては様々な意見がありますが、主に生活に関わる機会の少ない専門家が担当することが望ましいとされています(生活担当職員が実施する場合は児童と身近に関わる機会が多いことより負担が大きくなりすぎたり、心理教育プログラム自体が心理教育の経験に長けた専門性が必要となるため)。一方で、加害者と身近に関わる者の方が出来るアプローチは多岐にあるといいます。例えば、子どもの行動をモニタリングしたり、面接場面でプログラムをもとに学んだ内容(境界線のルール、間違った道、リラックスの方法など)を生活の中で取り入れていく、相談相手になり励ますといったサポートです。面接場面では一部分でしか学ぶことが出来ませんが、日常生活の中でも取り入れる事で日常的な学習につなげることができます。それらは、厳密なアセスメントに基づき(あるいはアセスメントをしながら)、実施されます。下記に、そのアセスメントの説明と、心理教育プログラムについて説明します。


アセスメントについて
 非行や犯罪に絡むケースに関しては、多大な情報に基づくアセスメントが必要になります(例えば、医師の診断、被虐待の有無、性に関する本人の関心、対人関係、余暇の過ごし方、本人の強み、成育歴、経済面など)。また、日常的な情報に加え、対象児がどんな場合に犯罪や問題行動をこれまで起こしてきたのか、今後どのようなリスクがあるのか(リスクアセスメント)、なども含まれます。今後のリスクとなる部分(例えば、性的な攻撃性の程度や本人の性的被害体験、養育者の一貫性など)とそれを軽くする可能性のある部分(例えば、非行に対する責任の受容や認知の歪み、怒りのマネージメント、ポジティブなサポート体制など)をアセスメントすることで、再犯防止のプログラムが立てやすくなります。こういった性加害のアセスメントは、生物、心理、社会的な側面を観察法、心理検査法、面接法、調査法によって捉えていく事になります。また、リスクをアセスメントするツールの一つとして、”J-SOAP2”という質問紙を用いる方法もあります。これらを明らかにすることで、変化の可能性やアプローチすると有効な部分を推測するのに役立ちます。


性加害者への心理教育プログラムについて
 現在、主流となっている心理教育プログラムのためのワークブックには、“回復への道のり ロードマップ第3版”や“性問題行動のある知的障がい者のための16ステップ”があり、それはリラプスリプリベンションモデル(再犯防止のためのモデル)とグッドライフモデル(よりよい生活を目指すためのモデル)の合わさったものになります。字数が多く問いも抽象的であり、内容が少し難しくなるので、活用するのに不向きな子どももいます。
 心理教育プログラムの構成要素には、動機づけ、サポーターの確認、性問題の定義、認知の歪み、感情の学習、境界線の学習、共感性の強化、犯行プロセスの作成、再犯防止計画の作成、性に関する知識など…大量にあります(この説明については今回は省略させていただきます)。
 つまりは、環境的な支えを検討しつつ、被面接者の変化への動機づけを高め、感情・性知識・社会的スキルなどの学習や認知の修正を試みながら、介入プランを作成。介入プランを完成させると、それを実施し、介入プランを再検討し、再犯防止につなげていくということになります。
 ちなみに、プログラムにはグループで行うものと個別的に(一対一で)行うものがあります。グループでは、メンバー間で再犯防止に向けて励まし合え、他者の視点も学ぶことができます。また、面接者が伝えると抵抗を感じることもグループで話し合うと納得しやすいようです(メンバー同士で思考の誤りを報告し合うワークもあります)。また、グループではスタッフが多いので、介入が間違った方向に流れず、心理教育によって本人の力だけでなく様々な支援者の力も借りられます。一方で、個別プログラムでは、対象者の具体的な情報がグループに漏れないように配慮でき、個別的な情報から支援できます。

 

犯行のプロセス・再犯防止(行動サイクルと介入プラン作成)
 サイクルのモデルには、一直線モデル(出来事→思考→感情→行動→結果)と螺旋モデル(出来事→思考→感情→行動→結果・出来事→思考→…と繋がる)があります。一度限りの反社会的行動や犯行は一直線モデルで説明されますが、非行や再犯を何度も繰り返す場合は螺旋モデルの方が理解しやすい場合が多いようです。実際にはそれぞれの要素(環境-思考-感情-行動)の因果関係は曖昧であり(皆が理解してくれないから暴力に至るのか、すぐに暴力に至るから皆が理解してくれないのか…など)、様々な要因は相互に影響を及ぼし合っています。そのため、一部分への介入のみで全体に影響を及ぼすことが多くあります。
 介入プラン作成は、犯行のサイクルを明確したうえで、介入できる部分を検討していく作業になります。深呼吸をしたり、その場を離れたり、誰かに助けを求めたり…ということです。これらを生活の中へ取り入れるためには、サポーターの協力が必要なことは言うまでもありません。
 以上に述べたことが、基本的には性加害者への心理教育では行われることになります。もちろん、子どもによっては実施が困難な場合もあり、その場合はその子どもにあった方法が適用されることになります。


施設職員(サポーター)が出来る事について
 以上から、施設職員ができることは以下の点があげられるのではと思われます。
・アセスメント(情報収集や、対象者の行動観察、ツールを用いてのアセスメント)
・環境調整(関係機関との調整、他者との関係づくりや生活空間の構造化、性刺激となる情報の制限)
・モニタリング(サポーターとして対象者の様子を見守ったり、相談相手になり、治療にむけて励ます)
・実践(性教育的な部分やソーシャルスキルなどについて学習する機会を与え、生活の中で実践する。また、面接にて考えた介入プランや対処方法、適切な行動も、生活の中で取り入れてサポートしていく)

 

さいごに
 以上には、アセスメントの方法と心理教育プログラムの構成要素、治療的介入、サポーターの重要性について説明させていただきました。繰り返しになりますが、性加害者が再犯防止に向けて効率よくプログラムを成し遂げるためには、サポーターの支えは欠かせないのです。そもそも、僕がブログにてこの内容を書こうと思ったのは、その事を伝えたかった為でもあります。心理教育を実施する上で、サポーターの役割が心理教育以上に重要な役割を持っているのです。
そのことを踏まえ、心理教育に携わる方は子どもと関わって考えていただければと思っています(なんて偉そうな)。
子どもの性加害の再犯防止に取り組まれている先生方、再犯防止に向けて努力されている子どもたち、または性被害者を出さないように努力されている先生方にとって、何かヒントとなると幸いです。



参考文献
Hunter,J.A.(2011)高岸幸弘訳(2012)性問題行動を抱える青年の認知行動療法 治療者向けマニュアル.日本評論社
Kahn,T.J.(2007)藤岡淳子監訳(2009)性問題行動・性犯罪の治療教育3 回復への道のり ロードマップ 性問題行動のある児童および性問題行動のある知的障害をもつ少年少女のために.誠信書房
Krisyan Hansen&Timothy J.kahn(2006)本多隆司,伊庭千惠監訳(2009)性問題行動のある知的障がい者のための16ステップ「フットプリント」心理教育ワークブック
藤岡淳子(2006)性暴力の理解と治療教育. 誠信書房