きままにブログ

臨床心理士・公認心理師。臨床心理学の話とか持病(再生不良性貧血)の闘病日記とか趣味の話とか色々書いてます。Twitter(@YllXyo)と質問箱(https://peing.net/ja/yllxyo)もしています。

闘病生活日記⑨ ~退院間近の話~

f:id:yushi40:20190806042036p:plain前回の続きになります。よろしくお願いいたします(^^)

 

退院が決まってから
 2019年9月25日に退院することが決まった。退院まで残り一週間だ。その後も、せっかく増えてきた血球が再び減少することがあったけれど、好中球(免疫に関わる血球)の値は良好であったことより、退院の計画が再検討されることはなかった。退院日が決まった事より、ついに薬も一種の練習として自己管理するようになった。同時に、外出やシャワーなどの様々な制限も解除された(外泊の許可は下りず)。

院内の人々
 数日後、隣のベッドの患者さんが退院した(結局一言も話すことがなかった)。そして、すぐに新しい患者さんがやってきた。その新しい患者さんは、加藤一二三さんに似た感じの男性の方(以下、”ひふみんさん”と呼ばせていただきます)で、来て早々、ずっと苦しそうな痰の絡んだ咳を繰り返していた。僕には潔癖な所がある。本来であればひふみんさんの体調を心配すべきなのだろうけれど、僕には心配する余裕もなく、繰り返しなされる咳に耳をつんざくられる思いになっていた。僕はその苦しそうな咳から逃れる為に、朝の8時頃から夜の21時頃まで殆どロビーに出て読書しながら過ごすようになった。
 ロビーには色んな人がいた。毎日電話で誰かと喧嘩し続ける患者さんらしき人、延命治療について真剣に話し合うご家族、僕と同じく黙々と本を読む女性、窓の外を眺めては去るのを繰り返す阪神タイガース金本知憲選手に似たスキンヘッドの男性、仲良さそうに大きな声で話す入院患者の男性二人組…。
 ある日、僕は、先程言った大きな声で話す二人組のうちの一人に「何の病気?」と話しかけられた。その男性は俳優の柄本明に似た方だった。その質問に僕が答えると、柄本さん(仮名)も「自分は〇〇ってやつで」と、ご自身の病気について説明した(初めて聞いた病名だったので忘れました…)。どうやら、彼はもう既に数カ月間入院しており、時折仮退院しては病棟に戻ってくる、というのを繰り返しているようだった。一方で僕はもうすぐ退院する予定である。そのことを伝えると、羨ましがっていた。僕にはコミュ障なこともあるし、そもそも刺激の少ない入院生活では病気のこと以外で話すテーマも思い浮かばなかったこともあり、結局会話も続かないまま一言二言話した後に、彼はその場から去っていった。

 この時、他にも社交的で、既にニコニコと明るい雰囲気のある柴田理恵似の女性等とも話す機会があった。この柴田さん(仮名)とは、風呂上がりにドライヤーをかけたりする時に、その場所を譲りあう事があり、少しずつ話すようになった。大抵は、最初にニコリと挨拶をして、僕が鏡の前を譲ってもらい、その代わりに大きな座席を動かして譲る。お互いに感謝を述べて、柴田さんがひたすら僕を褒め、僕が謙遜したり感謝を述べて、少しだけ「調子はどう?」とお互いに確認し、黙々とドライヤーをして、「お先に失礼します」と挨拶を述べて離れる、の繰り返しだった。相変わらず何も起こらず、平凡な時間だけが流れていく。

急な引っ越し
 この頃、僕は病院内であれば移動も自由だった。そのため、時折その限られた同じ場所を散歩したりしていた。突如部屋の移動を言い渡されたのは、その散歩から自室へ戻った瞬間だった。介助員さんが部屋に戻った僕の姿を見て、「急遽体調を崩された患者さんが来たので、今から部屋を移動しますが、大丈夫ですか?」と言った。どうやら集団部屋へ移動することになったらしい。僕は神経質だ。狭い部屋で多くの人と過ごすのには耐えられる気がしなかった。なので、介助員さんに「僕神経質なんです…」と伝え、「個室は空いてますか?」と確認した。が、あいにく個室は満員らしくてどこも空いてないらしかった。確かに、以前に比べて血液の数値がマシになった自分は、クリーンルームに居続ける理由などなかった。と言う訳で、その一時間後には荷物を纏めて、移動することになった。本当に突然の出来事だった。

 介助員さんに案内されて向かった先は妙に薄暗い雰囲気をした6人部屋だった。僕の入院スペースは他の入院患者さん達の病床に挟まれるような位置にあって、3畳ほどの空間だった。外の光も少ししか入ってこない。病床を囲むようにかけられた薄らと人影のうごめく仕切りのカーテンがより圧迫感を増大させていた。僕は、荷物を整理してベッドで横になった。早速、僕の左前からは常に怒っているような大きな声で話すお見舞い客がいた。そして、真左からは常に爪をパチパチと切る音が聞こえてきた。加えて、真右側からはゲップの音やタンを吐く音、音漏れしたラジオの声が聞こえ、右前からは苦しそうな咳がずっと聞こえてきた。更に、僕のベッドの前方からは、小声で「ドゥドゥドゥー♪ドゥドゥドゥドゥドゥー♪ブヒーブヒー♪」という謎の男性の歌声も聞こえてきた。皆、普段基本的に外出はせず動くことも少ないためか、夜になるとかえって活発になる感じだった。僕は結局、一睡も寝ることが出来ず、度々夜中に一人廊下に出て、そこの窓からぼんやりと月灯りを立ち見して過ごした。
 クリーンルームにいる時は感染症や体力の心配から看護師さんが食事を持ってきて下さっていたが、ここでは自分で取りに行く決まりになっていた。その一睡も出来なかった日の朝、僕はこの病棟の規律通り朝食を取りに行った。が、その際、ふと自分が入院している部屋全体を見渡してみると、各入院スペースにはそれぞれ、前の部屋と同室だったひふみんさんや、ロビーで窓の外を眺めては去る金本選手似の男性、ロビーで少しお話した柄本さん達の姿が目についた。どうやら、これまで耳に入ってきた様々な雑音はその方々によるものだったらしい。僕はそこで、残りの入院生活を彼らと一緒に過ごすことになるんだと気づいたのでした。

 

~つづく~

 

 

PS. 今回、1、2か月ぶりのブログ更新になります。遅くなり、大変申し訳ありませんでした。また同時に、これほど更新していなかったにも関わらず、毎日数十回の閲覧数をいただけていることに大変感謝しております。次回は(多分)退院した時の様子について書く予定です。あくまでも個人的な体験なのでどの程度参考になるのかはわかりませんが、「そんな人もいるんだなぁ」くらいにご一読いただけると幸いです。

今後ともよろしくお願い申し上げます。

闘病生活日記⑧ 〜入院治療中の話〜

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今回は、前回の記事「闘病生活日記⑦ ~治療が始まった話~」の続きを書きます。


ATGの投与が終ってから
 5日間にわたるATG(サイモグロブリン)の投与が終わってからは、全ての血球の数が著しく減少した。特に、血小板の減少する速度は早かったので、二日に一回という高頻度でそれを輸血をすることになった。また、感染症を予防するために、クリーンルームから出る事も、誰かに面会へ来てもらう事も、お風呂に入ることも禁止された。コミュ障な僕は、他の入院患者さんと話すことも無かったし(まず話題がなかった)、治療の山場も越えた為にお医者さんや看護師さんも日に日に来てくれる頻度も少なくなっていったこともあり、毎日が暇になった。することと言えば、ただベッドで横になったり、ベッドに腰掛けて本を読んだり、パソコンや携帯を触ったり、ご飯を食べるくらいだった。
 僕は、上記のような生活を送っているうちに、殆ど寝ない生活をするようになった。夜の20時くらいになると突然強烈な眠気に誘われ、ポックリ意識を失うのだけど、その2時間後には目覚め、翌日の20時になるまで一睡もしなかった。夜勤で巡回に来られる看護師さん達にも「いつ寝てるの?」と驚かれるくらいだった。けど、全く寝れないし、不思議と寝なくても全然平気だった。人はエネルギーが有り余ると、こんな身体になるのかぁ、と自分でも驚いた。


服薬・体調の変化
 ATGの投与を終えて数日後からは点滴や薬の量は少しずつ減ってきた。臭いのキツいネオーラルという薬も半減したし、徐々に点滴の量も減ってきた。すると、これまで一日1キロ増えていた体重が、増えなくなった。その後、非常に長い期間をかけてだが、少しずつ体重も減ってきた。しかし、ほんの少し体重が減るとそれ以上変わらなくなった。また、体重は少し減ってもムーンフェイスは一向に治まる事がなった。前回のブログでも言ったけど、当時はこの顔が丸くなる「ムーンフェイス」が一番の不安だった。結局、入院中にはムーンフェイスが治ることは無かった。けれど、退院して暫くしてから少しずつ治まってきたのだった。


血球は気まぐれ
 入院開始から13日目の2019年8月28日、早くも、「白血球が増えてます!」と言われた。その時、僕は「血球ってのはこんな早く回復するものなのか」と驚いた。白血球が増えたその日から、病棟内の移動や入浴、面会の許可を頂いた。なので、その数日後には友達や家族に面会へ来てもらった(その際には、やはり必ずと言っていいほど「太った」と言われた)
 しかし、その翌日からは血球数が増減を繰り返しながら低下していき、入院26日目の9月11日には再び入浴や部屋の外へ出る事、面会も禁止された。その為、今度は折角約束していた大学からの友達や前職の友達と面会も、全てキャンセルすることになった。治療中には先生から度々「血球が増えてます」と言われて喜ぶ事が何度もあったけど、それと同じくらい血球達には期待を裏切られてきた。血球達は凄く気まぐれだった。僕は「一喜一憂しないでおこう」と決めた(血球の増減については下の図を参照くださいませ)

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図:採血結果。赤線はヘモグロビン数、黄線は血小板数、青線は白血球数、黒い点は輸血したことを表しています。


退院が決まった
 そのあとの数日間も血球数が減少していった。けれど先生は「まだATGの影響が残っているだけ。血球が回復するのには個人差があって、特にしんさんが遅いわけではない。血球が下がりきったら後は増えていくと思う」と言った。実際に、その2日後の入院28日目(9月13日)の検査では、白血球の数が微量ながら増えていた。そして、先生は「今後も少し様子をみて、確実に上がり続けるようなら退院します」と言った。再び面会や入浴の許可も降りた。結局、その後も少し増えた事より、入院から40日目の9月25日に退院することになった。と言っても、数値的にはむしろ入院前より血球数が減っていた。僕は、「これで本当に退院できるのか?」という疑いと、「やっと退院できる!」という嬉しさと、「慣れてきた入院生活もついに終わるのかぁ」という寂しさが入り混じったような、何とも言えない気持ちになったのでした。

闘病生活日記⑦ ~治療が始まった話~

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 前回述べたように、治療が始まるまでの三日間は、クリーンルームの病室でユックリ過ごしたり、近くのお店に外食しに行ったり、お風呂にも一日二回入ったり、看護師さんや介助員さんとお話ししたりして過ごした(どうやら僕には環境が変化すると少し躁的になる所があるようで、今回の入院でも少しテンションが上がっていた)。そのように自由な三日間を過ごした後、ついに治療開始の日がやってきた。

治療開始初日

ー治療開始当日の朝ー
 その日(8月19日)の午前6時頃はいつもと変わらず明るい陽射しが室内を照らしていた。ただ、早朝から看護師さんによるバイタルサインのチェックを受けたり、採血を行った点はいつもと異なっていた。
 わざわざ早朝から採血を行うのには明確な理由があった。僕は、その日から「ネオーラル(シクロスポリン)」という薬を服薬することになっている。ネオーラルは免疫の抑制に関わる大切な薬である。もしもこの薬の体内濃度が高くなりすぎると、内臓に負担がかかるし、反対に少ないと治療効果が薄れるらしい。加えて、ネオーラルを服薬した後よりも服薬する前の方が正確に濃度を測定できるらというのもあるらしい。だから、決まった時間に採血を行い、正確な濃度を調べる必要があるとのことだった。結果的に、僕の場合はネオーラル服薬前の朝6時過ぎ頃に決まって採血することになったのだった。

ー大量の服薬と投薬ー
 僕の場合は、朝食後(午前7時ごろ)と夕食後(午後7時ごろ)にそれぞれ15錠程の多くの薬を飲んだ。また、寝る前にも液体の非常に苦い薬も飲んだ。中には先程言った「ネオーラル」という免疫を抑制する凄く臭い薬も含まれていたし、他にも胃薬や抗生物質等もあった。
 朝一で大量の薬を飲んだ後には、看護師さんに「お風呂どうしますか?」と聞かれた。どうやら、午前中から夜の23時頃までATGという薬を点滴するので、午前中にしかお風呂は入れないとのことだった。また、病院外への外出も禁止された。けれど、朝の10時頃までであればお風呂に入ることは許されていたし、病院内での移動であれば自由にしてもよいことになっていたので、まだ気持ち的には余裕があった。
 また、その日はロミプレート(AMG531)という治験薬も注射投与した。この薬は血液を作るために必要なものである。本来ならレボレードという薬が用いられるらしいけど、今回は治験ということもあり、その薬の代わりにロミプレートを用いることになった。この注射は上腕から投与する(皮下注射)こともあり、そこそこ痛いものだった(特に針を刺す時と薬を注入する時)。けれど、回数を重ねる度に不思議と慣れてきた。この薬は、数カ月もの間、投薬を続けることになった。
 上記に述べたとおり、この段階で、非常に多くの薬を投与した。でも、一番肝心なATGという薬の点滴がまだ控えていた。

ー初めてのATGの投薬ー
 治療の最初の5日間はATG(サイモグロブリン)という薬を点滴することになっている。ATGというのは、造血を阻害している「リンパ球」というのを減らす為の薬である。副作用としては全血球(白血球や赤血球や血小板等)の数が減ることや、それなりにアレルギーも起きやすい点が挙げられる。そのため、まずはそれを少量だけ投与して身体に異変が生じないか様子を見る「試験投与」をする必要があった。というわけで、僕もまず少量のATGを数十分かけて試験投与することになった。
 投与自体は一般的な点滴と同じだった。けれど、投与中はアレルギー等の危険があることから、5分おきくらいに看護師さんがバイタルチェックをしに来てくれた。結果、試験投与は何ら異常が無く、数十分くらいで無事に終わった。
 今度は、ついに本投与である。本投与では輸血1パック分くらいの量を午前11時頃から23時頃までゆっくり時間をかけて行った。主治医の先生いわく、ATG自体がアレルギー反応の生じやすいものであるので体への負担を減らすために時間をかけて少しずつ投与する必要があるとのことだった。
 投与中は試験投与の時と同じく、5分おきに看護師さんがバイタルチェックをしに来てくれた。けれど、ある程度問題なく時間が経過していくと、少しずつ看護師さんが来る頻度も減っていった。本投与開始から50分殆ど経過した頃、これまで通り、看護師さんが「寒気は無いですか?大丈夫ですか?」と僕に聞いた。その為、僕はこれまでと同じく「全然大丈夫ですよ」と伝えると、看護師さんは「もしも何か異常があったら呼んでくださいね」といつもと同じく言って去って行った。その5分後、僕は軽い寒気に襲われた。

ーATGによるアレルギー反応ー
 ほんの少しだけ寒気がし始めていた。けれど、それでも僕は「気のせいかな?」と思って放置した。しかし、時間が経過するにつれてその寒気がエスカレートしてきた。看護師さんが去って10分後には耐えきれない程の寒気に襲われたので、ついにナースコールで看護師さんを呼んだ。そして、熱を測ってみたら38度と少しだけ上がっていた。38度と聞くと「大した事ない」と思われるかもしれない。けれど、体感的にはマイナス20度位だった。結局、震えも止まらなかったことから、看護師さんが持ってきてくれた布団をもう一枚被り、解熱剤も点滴投与することになった。左腕にはATG、右腕には解熱剤という、よくわからない状況になった。しかし、そこまでしても更に50分が経過したくらいには40度近くにまで熱が上がっていた。一方で、解熱剤の効果?もあってか寒気自体は治まっていた。僕はベッドでただ横になり、されるがままだった。結局、そうしてる間に数時間かけて少しずつ熱は下がっていった。


治療開始2、3日目

ー予期せぬ副作用の数々ー
 2日目(8月20日)も同じように大量の薬を飲んだ。また、血小板の数値が下がっていたので、アレルギー防止の為のステロイド剤を点滴した後で血小板の輸血もした。同時にATGも投与したので、今度は左腕には輸血、右腕にはATGの点滴針が刺さっているという状態になった。
 ステロイド剤やATGの点滴後は妙に身体が重たいような気がした。加えて、治療開始より3日目(8月21日)の朝は、いつも通り起きようとしても、妙に瞼が重たくて目が開かなかった。手足にも何とも言えない違和感があった。
 その日、面会に来た家族が、主治医の先生へ「凄く浮腫んでますが、大丈夫ですか?」と聞いていた。そして、主治医の先生は、「沢山点滴をしているので浮腫んでいるのだと思います。点滴の量が減ったら少しずつ浮腫みも無くなると思います」と言った。そういった会話の後、久しく鏡で自分の姿を見てみると、目が酷く腫れていて、ほっぺたがパンパンになっていて、お腹も出ていた。僕はその時に“この身体の重さは浮腫みによるものなのか”と気がついた。
 
一方で、正直僕は何とも言えない不安もあった。というのも、調べてみると、ステロイドの影響で顔が丸くなる「ムーンフェイス」という副作用があると載っていたし、実際に入院してから8日後には体重が10キロ以上も増えていたからだ。本当に点滴が減っただけで体重も浮腫みも元に戻るのだろうか…?
 加えて、胃痛もするようになった。特に食後には胃が痛くなるので食事も少量で済ませるようになった。けれど、体重が減ることはなかった(むしろ一日1キロ以上は増えていった...)。本格的な胃の検査をしてもらっても何ら異常は無かった。主治医の先生曰く「薬の副作用かもしれない」と言っていたけれど、原因はハッキリわからなかった。結局、更に腹痛止めの薬も追加されることになった。
 また、初めてATGを投与した一日目以降、高熱が出ることはなかったけれど、それでもATGを投与する度に軽く熱が上がった。どうやら先生いわく、「38度以上の熱が出ると感染症にかかったものとして対応する」とのことだった。よって、僕は一度だけ38度以上の熱が出た時があったのだけど、その時は、本格的な医療器具を用いて採血し、菌を培養して調べるマジな検査をしたりした(結果的に僕は大丈夫だったし、最後まで一度も感染症にかかることなく済んだ)


治療開始4、5日目

ー白血球の数が底をついた日ー
 ATGの投与を開始してから4日目(8月22日)、主治医の先生より「血球の数が底をつきました。間違いなくATGの影響です」と言われた。検査結果を見てみると、本来は3.3から8.6あるべき白血球が0.15まで減少しているらしかった(血球数については下の表を参照願います)
 加えて、先生より「感染症のリスクを避けるため、暫くはこの部屋から出るのも控えてください」とも言われた。さらに「面会を控えるように」「暫くは一日起きに輸血します」「今日からはお風呂は禁止です」と言われた(頭を洗ったりタオルで体を拭いたりすることは許されていた)。その日から、僕は半径1メートル以上の距離を移動する事も病院関係以外の人と話すことも殆どなくなった。それでも、時折看護師さんや介助員さんなどの病院関係の方は様子を見に来てくれたので、まだ気持ち的には萎えずに済んでいた。結局幸運なことに、ATGの投与も最後まで大きな副作用もなく終えられたのだった。

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表:採血結果です。(下限値と上限値)は、通常の血球数の基準値になります。上の表より、8月20日から24日にかけて白血球数が急激に減っているのがわかります。


~つづく~

闘病生活日記⑥ ~治療が始まる直前の話~

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 下記は、前回書いたブログ(闘病生活日記⑤~治験を受けることにした話~)の続きです。



新たな主治医や看護師さんと会う
 療養生活が始まって丁度100日目になる2019年8月16日、僕はようやく治療に向けて入院した。長らく過ごすことになるであろう入院部屋の中は準クリーンルームというだけあり、非常に清潔感に満ちた空間だった。しかも、そこそこ広くて窮屈さも感じられなかった。
 部屋に到着して荷物を置いた後で、看護師さんに様々なルールについて説明いただいた。例えば、お風呂は予約をして入ること、面会では家族2名までは部屋に入っても良いが、それ以外はロビーでの面会になること、面会時には必ずマスクを装着してもらうこと、洗濯機や乾燥機、テレビ、冷蔵庫を使う場合はお金がかかること、外出・外泊は主治医の許可が必要となること…などがあった。
 説明が終わって少し時間が経つと、初めてお目にかかるお医者さんが挨拶に来られた。そのお医者さんはおそらく30才半ば~40歳くらい?の若めのハンサムな男性の方だった。非常に物腰が柔らかく、丁寧に目をみて話され、挨拶時にも深々とお辞儀をして下さった。僕は前回お話した癖の強そうな先生が担当いただけるものと思っていたが、どうやら新しく来られたその先生が入院中は担当くださるとのことだった。僕にとっては4人目となる主治医の先生だ。その先生とは、入院中は勿論、退院した後も診ていただくことになった。
 また暫くして、その日の受け持ち看護師さんも挨拶に来られた。その看護師さんは若そうな方だったけど、凄くしっかりされている印象を受けた。主治医の先生と同様にしっかり相手の目をみて話されるし、その話し方に明るさもあり、凄く柔らかく良い雰囲気の持ち主だった。自分としても安心して身の回りの事を任せることが出来た。どうやら担当の看護婦さんはその日によっても、また午前と午後によっても変わるらしく、その他にも多くの看護師さんとお会いしたけど、基本的に皆しっかりされて感銘させられるばかりだった。

具体的な治療法について
再生不良性貧血とはー
 これまで言っているように、僕の病気は「再生不良性貧血」である。再生不良性貧血とは、血球(白血球や赤血球や血小板など)が減少する病気である。これらが減少すると感染症にかかりやすくなったり、貧血が起こりやすくなったり、怪我が治りにくくなる。何故このような事が生じるかというと、「リンパ球」というのが絡んでいると考えられている(少なくとも僕の場合はそうらしい)。リンパ球は主に細菌やウイルス等に感染した細胞を攻撃したり、細菌やウイルスから守るための抗体を作ったり、一度侵入してきた病原体を記憶して素早く排除したりする役割がある。けれど、リンパ球が何を思ったのか血球の元となる造血幹細胞を攻撃してしまうことがある。通常なら造血幹細胞は後に白血球や赤血球、血小板に変わるものである。なので、造血幹細胞が攻撃されると正しく機能する血球が作られなくなってしまう。それが、いわゆる再生不良性貧血である。

ー免疫抑制療法とはー
 以上のことを踏まえ、再生不良性貧血の治療として「免疫抑制療法」というのが行われることがある。免疫抑制療法(ATG)は、薬の投与服薬によって造血幹細胞を傷害しているリンパ球を抑えて造血を回復させる治療法である。
 しかし、この治療には副作用がある。つまり、リンパ球を減らす薬を服用すると、リンパ球だけでなく他の血球も減少してしまうのである。よって、一時的に免疫力が下がり感染症にかかりやすくなったり、息切れや貧血を起こしやすくなったり、怪我が治りにくくなるのである。そこで、治療中には適宜輸血をしたり、また別の血球を増やす薬を服用したり、また感染症を予防する薬を服用したりすることになる。治療途中で、他の病気を合併したり、白血病や骨髄異形成症候群へ変異する可能性もある、大変リスクのある強烈な治療法だ。

ー使う薬についてー
 こういう治療であるが、僕の場合は、以下のような薬を使って進めていった。

  • ATG(サイモグロブリン)…様々な免疫に関わる抗体の働きを抑える免疫抑制剤。この薬の服用により他の血球の数も減少する副作用がある。一番きつい薬。
  • ネオーラル(シクロスポリン)...ATGと同じく免疫抑制剤。服薬は朝と夜、12時間空けて行う必要があり、少しでも飲み忘れがあると色々と厄介な薬である。血中濃度が高まることで肝・腎・膵機能障害などの副作用が起こることがあるため、頻繁に血中濃度の測定を行い、用量を調節していく必要がある。
  • ロミプレート(AMG531)…今回用いられる治験薬。血球を増やす効果がある。皮下注射(上腕あたりからの注射)で投薬する。

 もちろん、実際にはこれらの薬以外にも、胃薬、解熱剤、菌の繁殖を防止する薬、ステロイド剤、など多くの薬を服用した。


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(写真:ネオーラル)


ー治療スケジュールー
 主治医の先生や看護師さんと挨拶を終えて暫くすると、治験コーディネーターの方が治療のスケジュールの書かれた用紙を持ってきて下さった。見てみると非常に細かくかかれていた。これも多分、治験だからこそ頂けたものだと思う。こういう点で治験であると丁寧に説明いただけるのが助かった(以下に資料の写真を添付します)
 治療のスケジュールによると、最初の3日間は基本的な体調管理のみで治療はせず、入院3日後の8月19日から治療を開始し、8月23日までの5日間にわたりATG(免疫抑制剤)の投与を始めるとのことだった。また、毎朝7時と毎晩19時にネオーラル(免疫抑制剤)を服薬し、加えて週に一回、ロミプレートを皮下注射する、という流れで治療をすすめるらしかった。その他、資料にはバイタルサイン(体温、血圧、脈拍)のチェックやQOL(生活の質)の評価等が細かく書かれていた。ややこしい話ばかりですみません...。

 僕の場合、1ヶ月以内に退院する予定でスケジュールが組み立てられていた。ちなみに、最初の病院では最低3ヶ月の入院が必要と言っていたし、一つ前の病院でも2ヶ月の入院は必要だと言っていた。一方で、今入院している病院では患者さんの数が多かったり、治験という制約があるため、出来る限り早く退院を目指す指針があるようだった。


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(写真:治療スケジュール)


治療がはじまるまでの三日間
 というわけで、僕は治療が始まるまでの3日間は暇をもて余していた。ただ、看護師さんが頻繁に血圧や検温などのバイタルサインの測定に来てくれていたので、その間にお話し出来たのは凄く気分転換になった。看護師さん達は僕のテーブルの上に置かれている多くの心理学本を見つけては「もしかしてカウンセラーさんですか?凄い!」と声をかけてくれたり褒めてくれたりした。僕もこれまで看護師さんと共に働く機会も多々あったので、その仕事の大変さはある程度理解しているつもりだった。僕はその忙しく重い責任がかかるだろう仕事内容の中でも熱心に患者さんと向かい合う看護師という仕事について感銘を受け、一方で看護師さんは心理士という仕事をしていることをよく労ってくれた。看護師さん労ってくれた時には僕は「いえいえ!看護師さんの方が余程カウンセラーですよ!」等と言うことがあったが、全くの本心だった。
 ちなみに、同室には僕以外に2名いたが、物静かだったし、まず話すことはなかった(退院直前には少し話しましたが、その話はまたいつか書きます)。そのうちの一人は看護師さんに「静かで落ち着かない」と訴えているほどだったが、僕は静かでノビノビ落ちついて過ごせた。この時はお風呂も自由に入れたので一日二回入っていたし、部屋の外にも出て良く、外出の許可もおりやすかった。面会も基本的にルールを守りさえすれば自由にできた。なので、たまに外出して気分転換をした。けれど、基本的にどの日も猛暑で長く外にいれなかったので、看護師さんの一人に教えて頂いた近所にあるトンカツ屋さんやカフェに行って涼んだりした。カフェでゆっくりしたりトンカツ屋さんでトンカツ定食を食べて帰った後には看護師さんにその感想を話したりした。看護師さんはきっと忙しかったと思うけど、嫌な表情を一つもせずにニコニコと話を聞いてくれた。個人情報もあったりするので詳しく話せないけど、ここに書いてることの数倍は沢山お話した。暇だと気が滅入るけど、少しでも話を聞いてくれる人がいると気分が晴れた。本当に、看護師さんはカウンセラー以上にカウンセラーだった。
 このようにして治療開始までの三日間を過ごした。自由な環境でノビノビとした気持ちの中、8月19日、ついに免疫抑制療法が始まった。そして、先ほど述べた自由にしていたことは、治療が始まってからは一切できなくなった。また、多くの薬の副作用で悩まされることになったのだった。


~つづく~

闘病生活日記⑤ ~治験を受けることにした話~

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これは、前回のブログ(闘病生活日記④ ~難病指定病院へ転院した話~)の続きです。


治験を紹介されて
 僕は、新たな主治医の先生より「治験に興味はないです?」「治験受けます?どうします?」と聞かれた。治験とは被験者に新薬を投与して効果を確かめる臨床試験のことだ。僕は臨床心理士である。「治験」というのが何か詳しくは知らなかったけど、よく臨床心理士の求人を検索すると「治験コーディネーター」という高収入な仕事が引っ掛かるので爪の先の垢の一粒程度には知っていた。けれど、心理士としてこれまで幾つか研究もしてきた身としては、例えばエビデンスの十分でない心理療法がいかに怖いか、というのも知っているつもりだった。同様にエビデンスが十分でない薬を用いて治療を受けるのは正直僕の中では不安要素だらけだった。やっぱりこれまで用いられてきた方法の方が安心なのではなかろうか…?
 けれど先生いわく、今回の治験で用いる薬による治療は「十分に研究されて認められてるもの」とのことだった。それに、治験であると入院費や治療費などの負担は減るかもしれない、とのことでもあった。僕は、医療費や入院費などの経済面も心配だったので、その点については少し惹かれた。実際にどの程度負担が減るのかについては主治医の先生もあまり詳しくはわからないようで、「とりあえず話だけでも聞きに行ってみますか?」と提案されたので、話だけでもと聞きに行くことにした。そして二週間後、別の地域にある同系列の大学病院へ実際に話を伺いに行くことになった。

 その病院へ行くまでの二週間の間、治験を受けるか否かについて真剣に考えた。さっき言ったように、僕の中ではエビデンスが十分でない治療というのは不安だった。今回の治療についても「認められてるもの」と言いつつ、僕は内心「本当か?」と疑っていた。けれど、費用を出来る限り安く済ませたいというのと、落ち着いて過ごせる入院環境がよい、というのもあったので、その条件によったら例え治療に不安があったとしても治験を受けるしかないと思った。というのも、経済的な面で家族に負担を強いてしまっている現状があるからだ。しかし、今の段階では圧倒的に情報が不足していたので決めようも無かった。周りの人はインターネットや数少ない知人の意見を参考に「知人があそこの病院はいいって言ってた」「ネットにいいって書いてた」などと言ってくることもあったが、僕の命に関わる大切な選択であるにもかかわらず、そんな意味不明な情報を引っ張り出してくることに何とも腹が立った。僕の頭は、最低でも300人以上のサンプルにアンケートとって統計処理して出した確かな結果でないと信頼出来ない研究脳になっていた。でも、そんな都合のよい情報がある訳はなかった。実際は情報を得る方法が限られていたので、意味不明なネットや数人の知人の意見を真に受けるのも仕方がないと言えば仕方がないのかもしれない。


治験の内容と条件
 二週間後、つまり療養生活75日目の2019年7月22日、僕は治験をしているという別の地域にある同系列の大学病院へ話を伺いに行った。そこは僕の自宅から車で1時間半ほどかかる遠方にあった。そして、やはり大学病院であるだけに大きかった。しかも、これまで転々としてきた病院の中でも比べものにならないくらいに人が多かった。更に、施設内部自体が古めかしく少し薄暗かったので、そこに居るだけで妙に疲れるレベルだった。

 受付を終えて案内通りの場所に行くと、そこには白衣を来たお姉さんと50代くらいの男性のお医者さんがいた。その白衣を着たお姉さんがいわゆる「治験コーディネーター」という(おそらく高給料の?)方のようだった。まずはお医者さんの話を伺ったところ、以下のような話があった。

  • 治験であってもすることは従来の免疫抑制療法とあまり変わらない。
  • 治験では、従来の免疫抑制療法で用いてきた薬の一つ"レボレード"を"ロミプレート(ANG531)"という新薬に変えて実施する。
  • これまでは従来の免疫抑制療法が効かなかった場合にロミプレートによる治療を試みられてきたが、今回は順序を変えてロミプレートを先にして効果があるかを確かめるという目的である。
  • 従来の免疫抑制療法では飲み薬による治療であるが、ロミプレートは皮下注射(肩の下に打つ注射)で行う。
  • ロミプレートについては、もう十分に研究されてきて、今では認可も降りている治療法である。
  • 効果や副作用については従来の方法と特に変わらない。
  • 入院費や治療費、食費は全額病院側が負担する。
  • 研究目的なので基本的に入院は1ヶ月程度と決まっているが、もしも必要ある場合は延長される(特に、そこの病院は患者さんが多いのであまり長く入院をさせない方針をとっている様子だった)
  • 退院後も数ヵ月間通院して服薬を続けながら様子を見ることになる。
  • 退院後はロミプレートを投与する度に一万円が支給される(通院の度に投与する予定)

 その先生にはその他にも色々教えてくれたけど、専門用語ばかりでよくわからなかった。また色々と質問したけど、質問の途中で話を遮られたり話がずれたりして、結局聞きたいことも聞けなかった。僕は仕事でこのタイプのクライアント様とお会いすることがあり、この多弁で一方的に話したり話がズレていくこの感じに心当たりがあった。こういう方は研究であると力を発揮しやすい。でも、治療を受ける側としては確りと意見を聞いてくれるのだろうか、、と正直不安になった。けれど、治験の条件的には悪くないと思った。

 医師の止まらない早口な話が珍しく終わると、今度は治験コーディネーターの方に別の小さな部屋へ案内され、今度は入院や費用等の細かな説明を受けた。どうやら入院をするとすれば3人部屋のクリーンルーム(準無菌室)になるだろう、とのことだった。また、希望をするなら少し費用はかかるが、個室部屋も準備できる、とのことだった。僕は以前に市立病院で入院した時、そこの集団部屋で他の入院患者が咳やオナラやゲップやタンを吐くのを繰り返したりして辛かった記憶があった。なので「クリーンルーム」と聞いて、「ここなら少しは空気がマシかも知れない」と安心した。その他、入院時のルールや準備すべきこと、治験のスケジュールや用いる薬等についても説明いただいた。以上をふまえて、経済的な面で負担が少なそうだったのと、比較的入院部屋も清潔そうだったのとで、今や治験での治療を選ぶしかないかな、という考えになっていた。


心理士、被験者となる
 話を終えると、早速治験の対象者として適切かを調べる為に、再び採血や何度目かの骨髄生検(骨髄の組織を取る検査)、何度目かの内蔵機能の検査などを行うことになった。採血では治験用のデータも必要な為に小瓶12本分という多くの血液を取った。終始治験コーディネーターの方がついて検査ルームの案内をして下さったり話しかけたりしてくれたので心強かった。また、QOL(生活の質)などの質問紙を記入するようにも言われた。これまで研究で被験者さん(実験の協力者の方)QOLの質問紙を配ったりしたことがあったが、まさか自分が記入することになるとは思っていなかったので変な感じがした。「治験コーディネーターってのはこういう仕事をするのかぁ」と知れてラッキーだと思ったし、「これが被験者の方の気持ちかぁ」と勉強になった。けれど、全てを終える時にはその日だけで10時間以上かかったので流石に疲労感が半端無かった。被験者という立場は大変だ。
 気づけば治験を受けるという前提で話が進んでいるようだった。というか、すでに被験者さん扱いだった。でも僕はそれで納得していた。例の多弁で個性豊かなお医者さん曰く、「入院する部屋が空き次第、入院を開始する」とのことで、連絡を待つことになった。そして、その数日後には、治験コーディネーターの方より「8月16日に入院を考えていますがいかがですか?」と連絡が来た。8月16日というのは、療養生活が始まってからちょうど100日目だ。つまり、最初に病気が発覚して入院した市立病院からは「最低3ヶ月の入院が必要」と言われていたが、3ヶ月以上経過してからようやく入院治療が開始する事になったのだった。


4回目の転院、2回目の入院、初めての治療
 入院日当時、僕はあらかじめ準備しておいた多くの荷物を持って病院を訪れた。これで4回目の転院ということになる。病院側からは「必ずマスクを着けてきてください」と連絡を頂いていたので、家族もろとも確りマスクを着けて行った。これまでも、治験であるためか、凄く念入りに丁寧かつマメに何度も連絡を頂いていた。受付を終えた後は治験コーディネーターの方と会い、そのままその方に病室へと案内していただいた。エスカレーターで11階に到着すると、また歩き、扉を開けて、また奥の方へ歩いていく。途中でナースステーションがあり、そこから看護師さんが出てきて、代わりに案内頂いた。さらに真っすぐに進んでいると、左手に「準クリーンルームについて」と説明書きの貼られた扉があり、その扉を開けると凄く清潔そうな白く狭い空間が広がっていた。そこにはまた四つほど扉があり、各々の扉の横には入院患者さんと思わしき数名の名前と、アルコール除菌用のセンサー付きの機器が一台ずつ備えつけられていた。看護師さんより、「出入りする時は必ず除菌して下さい」と説明を受けたので、言われるがまま手をその機器にかざして除菌した後、その前の扉を開けて部屋の中に入った。部屋の内部は見るからに清潔そうな空間が広がっていた。3人部屋であるがカーテンの仕切りで区切られていて他のメンバーは見えなかった。僕のスペースは部屋の奥手にある窓側の空間で、四畳程度の広さだった。大きな窓からは病院の一角や、自然、青く晴れた空が綺麗に見渡せた。部屋の位置や構造的には凄く閉鎖的であったが、11階という病院の最上階ゆえの見晴らしの良さや、清潔に保たれた室内の様子に僕は安堵した。
 こうして療養生活100日目の8月16日、僕はようやく治療に向けて入院した。これで2回目の入院ということになる。そしてついに、どキツい薬による、初めての治療が始まろうとしていたのだった。

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(写真:準クリーンルームについて、の説明書き)

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(写真:室内の様子)


 ~つづく(次回はようやく治療についての話をします!)~



PS. これは今より1ヶ月ちょい前の出来事です。僕は今週、無事に退院しました。その時に担当いただいたお医者さん、看護師さん、介助員さん、治験コーディネーターさんには本当にお世話になりました。まだブログには書いていませんが、前もって感謝の気持ちを伝えたく思っております。本当にお世話になりました!そして、本当にありがとうございました!!

闘病生活日記④ ~難病指定病院へ転院した話~

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前回のブログ(闘病生活日記③ ~急遽退院することになった話~)の続きです。

 

新たな主治医と出会う
 前回にも書いたように、僕は三度目の転院をすることになった(実はその後ももう一度だけ転院しますが)。その新たに転院した病院は、「難病指定病院(指定医療機関)」に指定されている、骨髄移植にも長けた大学病院だった。やはり大学病院となると患者さんの数が非常に多くて、待ち時間も数十分~数時間と桁外れに長かった。けれども、今後の事を考え、しっかりとしたより専門的な病院で治療を受けたいと思って決めたことだった。後で実感したことだけど、やっぱり町の病院や難病指定病院でない他の病院に比べ、より専門的な機器やお医者さんが揃っている難病指定病院で治療を受けた方が経済的な面でも医療の指針の面でも治療の進め方についても確りしていると思った(再生不良性貧血と診断される可能性のある方は、早い段階から指定医療機関へかかることをお勧めします)

 長い待ち時間を経て、新たな主治医の先生と初対面し、そのまま診察を受けた。その主治医の先生は少し上から目線で話すところがあったり、物事をすぐに決めたがるところはあるようだったけど、言うべきことをハッキリ言ってくれるので僕にとっては信頼できた。診察時、その先生からは次のような事を言われた。

 

  • (病院から引き継いだ採血結果を見たところ)もしも再生不良性貧血やったらステージ4(重症)ちゃうかな?」
  • 「このままほっといたら死にます」
  • 「記録は引き継いでいるけど、それを鵜呑みには出来へんから、また一から再検査をします」
  • 「入院?!いや入院はないで~!入院しても暇なだけやで~。これからは一週間に一回来てください。で、その時に血液検査と血小板の輸血をしましょう」
  • 「入院は治療が始まってからになる」
  • 「40歳未満だと造血幹細胞移植(骨髄移植)の方が成功率が高い。けど、40歳以上になると下がって免疫抑制療法の方が効きやすくなる。しんさんはまだ若いから通常は移植を考える」
  • 「移植した患者の1割が拒絶反応で死にます。後遺症が残ることもあるし。けどこれだけはどうなるかわからない。やってよかったって思うのも後悔するのも後でわかることやから」
  • 「臓器の提供者にも後遺症が残るリスクがあります」
  • 「移植は臓器提供者とHLA(白血球のタイプ)が一致してる必要がある。けど、まず両親とは一致することがなくて、一番一致しやすい兄弟姉妹でも4分の1の確率しか一致しない」
  • 「HLA検査は保険適応外。ここでは一人3万円でできる(場所によって数万のバラツキがある様子。以前の病院では一人8万円と言われていた)」
  • 「手洗いうがいもしっかりして、怪我とか感染症には徹底的に気を付けるようにしてください。人混みは避けてください」

 

 主治医の先生からは上記のように多くの説明を受けた。そして、その場で「どうします?移植します?免疫抑制療法にします?」と僕に決断を迫っていた。けど、こんな大切なことをその場ですぐに決めれる訳がなかった。僕は死ぬことは全く怖くなかった。でも、移植の選択をしたために兄弟姉妹に重大な後遺症が残ったり、痛みを伴わせることが嫌だった。だから、移植には少し躊躇していた。そんな簡単に決断できる訳がなかった。

 

造血幹細胞移植へ向けて

 結局、移植する方向で進めるかを決めるのにはドナーになるかもしれない兄弟の意見も大事なので、まずは兄にも電話で確認することにした。でも、きっと僕から直接確認したとすれば、本当は嫌でも「いいよ」と言うしかないのではと思ったので、一旦、親の方から兄に確認してもらうことにした。結果、兄は「骨髄なんかいくらでもあげるよ」と言っていた、とのことだった。正直、僕は、この時点で何度も「死」について考えてきたこともあって、死ぬこともある程度覚悟し、受け入れるよう心の準備もしていたので怖さもなくなっていた(いや、死ぬことに対して実感がわいていなかっただけかもしれない)。けれど、兄の言葉で「自分の命は自分だけのものじゃないんだなぁ」「生きないとなぁ」と思った。兄が本当に僕の事を想ってドナーになることをも許してくれている様子だったので、移植も視野に入れて考えることにした。そのように主治医の先生に伝えると、やはり一度決まると展開が早くて、その日のうちに、採血検査、骨髄生検、内臓機能、呼吸機能など様々な検査をすることになった(下に治療までの流れをまとめてみました)

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HLA検査を受けてみて

 まだハッキリと移植をするか決めていなかったけど、とりあえず兄のHLAと自分のHLAが一致するか検査してもらうことにした。その時に言われたHLA検査の方法は2つ。一つ目は直接病院にて直接検査をする方法。二つ目は病院に来ずとも、自分で口内にある組織をとって機関に郵送して出来る方法。HLA検査をすると決まってから翌週、兄は一つ目の方法で、つまり、わざわざ午前中の仕事を休んで病院まで来て検査をしにきてくれたのだった。その時はどんな検査をするのかまでは具体的に聞けていなかったので、「腰から太い針を刺すのではないか」などと色々と想像を膨らませていたが、実際は採血一本で済む簡単なものだった。でも、検査を終えてからがまた長く、結果が出るのに2・3週間はかかると言われた。だから待った。その間、もしもHLAが一致すれば移植はどうするかについてずっと考えていた。こういう命に関わる選択というのは中々する機会がなかったので、たとえ開き直ってた僕でさえ思いの外疲れるものだった。結局のところ、どの選択をすれば正解かなんて全くわからないし、ネットに載ってる情報も胡散臭いものばかりで信頼できるものじゃなかった。何より周りがうろたえたり「こうすればどうか」と提案してくると本当は自分が何をしたかったのかがわからなくなって、考えが堂々巡りとなり、余計に疲れた。でもまずはHLA検査の結果次第なので、とりあえず待った。待つしかなかった。

 

自宅療養中の生活

 HLA検査の結果を待っている間は、自宅療養という形でほとんど家の中に籠っていた。一応感染症のリスクがあるため、人の多いところに行くことは出来ず。大阪の中心部に友達が多い自分にとっては友達とも会うこともなくなり、ほとんど近所のお店の人か病院関係者か家族としか話すことがなくなっていた。気づけば完全なる昼夜逆転の生活になっており、昼の13時に起きて明け方の6時に寝るという生活リズムが習慣づいていた。どうしても誰かと会う必要のある時にはわざわざ家まできてもらった。職場の上司に至っては、休職などの手続きのため、遥々一時間以上かけて自宅まで来てくださったりした(本当に感謝の気持ちでいっぱいです...)。それに、友達とは直接会わずともできるオンライン上で“クトゥルフ神話TRPG”をして遊んだりもした。これまで何度も計画を立てては中止になっていたので、実質数か月振り?くらいだった。でも、検査結果が出る日が近くなるにつれて少し不安になり、遊ぶのにもテンションが上がらなくなることもあった。また、昔に読んだヴィクトール.E.フランクルの「夜と霧」やE.キューブラー・ロスの「死ぬ瞬間」を思い出して、「せっかくならば闘病中の出来事などを詳しく残すといつか役に立つのでは」と思うに至った僕は、この頃よりブログも書き始めた。病院へは週に一回、待ち時間も合わせて毎回半日以上は潰れることになったけど、休むことなく行った。その間には、以前行った内臓や呼吸器などの検査結果がでて全く異常がないことがわかったり、再び「再生不良性貧血だろう」と何度目かの同じ診断が出たりした。一方で、血小板の輸血ではアレルギーが出て全身を蚊に刺されたみたいな腫れと痒みに襲われたこともあった。そのせいで輸血前には毎回、予防のためのステロイドを打つことになった。その時はまだ、輸血前に必ず打つことになってしまったこのステロイド剤のせいで、後々再入院した時、急激に太ったり顔が異様に丸くなってしまう(ムーンフェイスというらしい)ことになるとは、全く想像していなかった。

 

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写真:職場の上司から頂いたお花とお菓子です。花言葉は「元気」らしいです(泣)。お花などは多くの上司や同僚で負担しあって買ってくださったみたいです。上司からは温かい励ましのお言葉までいただきました。保険などについても僕が最大限活用できるように調べてくださった上に、すごくご丁寧にかつ詳しく説明頂きました。僕の事をすごく心配してくださっているのが伝わってきました。感謝しても感謝しきれません。心から、本当の本当に、ありがとうございます。。

 

HLA検査の結果

 HLA検査をしてから二週間後、ついに結果が出た。主治医の先生は僕と顔を合わせるや「え~、一致してません」と凄く軽いノリで言った。その後、姉にもHLA検査(これは口内に棒を軽く擦って組織をとる簡単な検査)をしてもらったが、姉もまた同じく一致せず。でも、もともと合う可能性は低いし、それを覚悟していたので全くショックではなかった。病気が発覚して50日後の6月27日、ようやく治療の方向が決まりつつあった。残念ながらHLAは一致していなかったけど、これまで思いの他、全くの進展もなく時間だけが過ぎて行っていたので、「やっと治療方法が決まった...」「免疫抑制療法に決まったんだなぁ」と見通しが持てたことにむしろ少しホッとした。

 でも、HLAが一致していないと伝えられたその日、今度は主治医の先生より「実は治験の話がありまして」と新薬の臨床試験について提案された。何度も言うのもなんだけど、その時の僕の主治医の先生は物事をすぐに決めたがるところがある。というわけで、やっぱり今回も再び、その場で「どうします?従来の”免疫抑制療法”を受けます?”治験による新薬の治療”を受けます?」と治療法の決断を迫られたのだった...(デジャブかよ...)。そうして、「やっと治療方法が決まった...」と安堵したのもつかの間、今度は従来の免疫抑制療法を受けるか、治験による新薬治療を受けるか、という治療方法の選択に、再び悩まされることになったのだった(ほんと、選択の多いこと...)

 

 次回、治験をどうするか?とか、そういう話ができればと思っています。治療開始の話までもうすぐです!

闘病生活日記③ ~急遽退院することになった話~


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前回のブログ(闘病生活日記② ~入院生活が始まって間もない時の話~)の続きです。

 

集団部屋での生活

 2019年5月17日、僕は個室部屋から4人の集団部屋へ移動することになった。

 その部屋の中は絶妙に薄暗く、所々汚れていて、カーテンで仕切られた自分の空間はわずか畳2・3畳分くらいしかなくて少し窮屈だった。部屋の中は患者さんやお見舞いに来た方、看護師さんの声が飛び交っていて騒がしかった。頻繁にゲップやおならの音、痰を吐く音などが聞こえていた。やや潔癖症の僕にとっては正直辛かったので、あたり一面に消臭剤をまき散らしてはほぼ一日中耳栓をしながら布団の中に潜り込んで生活するようになった。もともと神経質な性格なので食事でさえ喉が通りにくくなっていた。僕は他の病棟から移ってきたわけであるが、看護師さんの中であまり引継ぎがされていなかったようで、一から部屋やお風呂の説明をされたり、僕は普段から平熱が高いのに関わらず検温の際に37度程度の熱であれば毎回「熱がありますね」と言われたり、中には入院自体が初めてだろうと勘違いされている方もいた。心理士として働いてきた自分は引継ぎには敏感になっていたので、尚更雑な扱いをされている気分になってしまっていた。もちろん、多くの患者を担当する看護師さんは全く悪くなく、むしろ今でもすごく感謝しているくらいだ。ただ、どうしても看護師さんは忙しかったりするし、環境的な面に関してはどこかしら何かあるのでそれだけは仕方がない。

 

再生不良性貧血という難病

 部屋を移動したその日、精密検査の結果が返ってきた。どうやら僕は骨髄異形成症候群と再生不良性貧血がちょうど重なるところにある疾患だそうで、明確に区別できないが、「たぶん再生不良性貧血だろう」とのことだった(再生不良性貧血と骨髄異形成症候群の病態については”闘病生活日記②”を参照願います)。また、検査前は「もし再生不良性貧血であれば軽症だろう」と言われていたけど、実際に検査した後は「ステージ3(やや重症)」だと主治医より告げられた(更に後にはステージ4重症ではないか、と言われた)

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 再生不良性貧血は難病である。けれど、それを聞いて僕と家族は喜んだ。というのも、再生不良性貧血であれば、難病指定を受けることができて医療の補助を受けられるからだ。それに以前に主治医の先生も「骨髄異形成症候群の方が厄介」と言っていた。実は僕は1年半前まで九州地方に住んでいた。が、その頃にも健康診断に引っ掛かり、検査した結果「骨髄異形成症候群」だと診断された過去がある。でも、あまりにもその時の主治医が上から目線で人を小馬鹿にするタイプの人だったし、そもそもその時は公務員でも無かった僕は残業や休日出勤などで病院に行く時間が勿体なく感じていて、病院に行かずじまいだった。結局その後、僕は退職して関西の実家に戻って数か月が経過してから引きこもりの方の支援に携わるアルバイトをしたり、最終的には市役所で子育て相談員として働くことになった。そして、関西に帰ってきたために旧友と遊ぶ機会も増えて、そうしてその旧友より「しんくん、黄色くなったな」と言われて病院に行った結果「再生不良性貧血だろう」と診断されたわけだった。もしも「骨髄異形成症候群」だとされていた2年前に緊急入院をしていたら難病指定は受けられなかっただろう。いやそれどころか、病気が進行していることにさえ自分も含めて誰からも気づかれず、九州という離れた土地の職場にて一人宿直中に野垂れ死んでいたかもしれない。

 

色んな保険とか

 ついでながら、難病申請以外にも経済的に助かったことがいくつかある。

 実のところ、緊急入院する前日も様々な仕事が入ってきて、スケジュールを立てたばかりだった。けれど、入院を機にそれらも全てできなくなった。一度職場に電話した時、僕は「入院がどれくらいになりそうかわかったらまた連絡ください」「病名がわかったら教えてください」と言われていた。なので、大まかな病名がわかった今、再び職場へ電話かけた。僕は電話で「入院最短三か月になりそうです」「再生不良性貧血だと思います」と言ったが、上司は迷惑がる様子もなく真剣な声色で「前からしんどくなかった?」「しんどくても無理してたんじゃない?」「ゆっくり休んでね」と言ってくれたのだった。後々、僕は来年3月に契約が切れるまでの1年近くの間、職場に籍を置いてくれることになったし、その間、有難いことに傷病手当も受けられることになった(この話はまた後々に詳しく書きます)。もしも未だに九州の町にある小さな職場で働いていて、そこで緊急入院をしていたとすれば、ここまでの手厚い援助は受けられなかったであろうし、その職場の性格上、退職を迫られてもおかしくなかったと思う。

 また、その職場を退職した後、僕には無職の期間やアルバイトの安めの給料で働いて生計を立てていたこともあった。これがまたラッキーで、もしも数か月前に高い給料で働いていたらその分医療費も高く払わないといけなかったらしい。しかも、無職の時やアルバイト時代に緊急入院をしていたら保険料の関係で苦しんでいただろう。一方で、今は公務員として働いていて、保険料も確りと払えていたので保険にも困ることはなく、治療費も安くて済んだ。難病指定の助成制度だけではなく、健康保険も高額療養費も休職手当も、この時期というタイミングで入院できたために活用できた。そう考えると本当に運がよかったと思う(ほんと、これらの制度に助けられました)

 もしも入院するタイミングによれば、「骨髄異形成症候群」ということで難病指定も受けられなかったろうし、遠くにいる家族とも会えず心配をかけていただろうし、法人の時期や無職の時期に入院していたら健康保険や傷病手当はどうなっていたことかわからないし、退職を迫られていたかもしれないし、余分に医療費を払うことになっていたかもしれないし、そもそも一人で野垂れ死んでいたかもしれない。僕はこの入院環境にストレスを感じ始めていたけど、このタイミングで入院出来たことには心底感謝した。

 

免疫抑制療法という治療

―少し話が脱線したので戻りますー

 僕はこれまで主治医より「造血幹細胞移植」を第一に実施するとして治療方針が立てられていたが、精密検査の結果が出た後には何故か「今週から免疫抑制療法を行います」という流れになっていた(この点について理由は忘れたか、聞き逃したので正直なところよく理解していません。失敬)一度決まると展開が早いのが病院。すぐに治療のスケジュールが立てられていて、その数日後には免疫抑制療法を実施するという方向で話が進んでいった。

 免疫抑制療法(ATG)は、造血幹細胞を傷害しているリンパ球を抑えて造血を回復させる治療法らしい。服薬によって一時的にあらゆる血液の数値が極端に下がる副作用があり、感染症にもかかりやすくなるため注意が必要となる。それを聞いた母は、“集団部屋でも大丈夫なのだろうか”“集団部屋となると感染症のリスクはどうなのだろうか”と心配していた。主治医に聞いても心配はないと言っていたが、母はどうしても気がかりな様子で、僕が知らない間に何故かより専門的な病院に転院させたいという話を主治医にしていたらしかった。僕は次々に話を進められていく状況が気持ち悪くさえ感じ、母によく怒ってその気落ちを伝えた。一方で僕は主治医の先生を信頼していたので心配はしていなかったが、辺りから聞こえるゲップや痰を吐く音、おならの臭いなどが不快だったので、あまりこの部屋で長居はしたくなかった。そのストレスがあったので、家族が面会に来た時にはキツく当たった。内心、家族が頻繁に面会に来ること自体が妙なプレッシャーで“お前はひどい病気なのだ”と直面化されている気分になったし、ただ一人だけ休んでいるのにわざわざ休みを縫ってまで面会に来てくれていることに後ろめたさがあった。親や姉には「来やんといてくれ。迷惑やから」と本気でイライラをぶつけることもあった。そんなストレスフルで決して清潔とは言えない状況であるので、感染症の事を考えると心配になるのも当然のことだと今になって思う。

 結局、話は次々と進み、造血幹細胞移植も受けられる近隣の大学病院へ転院することになった。これで転院するのは実家の近くの小さな民間の病院、少し離れた血液内科のある今の市立病院に次いで3件目ということになる。やっぱり一度転院が決まるとその後の展開が非常に早くて、次の日の朝には荷物をまとめて今の入院先からそそくさと出ていくことになった。それは、免疫抑制療法を始める予定だった前日の出来事だった。

 

難病指定病院への転院

 難病指定病院(指定医療機関)で治療を受けると、難病患者は助成を受けることができる。僕が新しく転院した先の大学病院は入院していた市民病院よりも更に大きな難病指定病院であった。そこにはより専門的な機器や先生が揃っていたが、大きな病院であるということはそれ程に患者も多く、人がごった返していて、おまけに待ち時間も長いという現状がついて回る。朝から採血などの検査のために長い待ち時間を要した後、ようやく新たな主治医との顔合わせをし、診察を受けることができた。僕はこれまで当時の主治医より「最短3か月の入院が必要」「他の病院へ転院して入院をしましょう」と聞かされていたので、入院をするつもりでいた。しかし、その新たな主治医の先生からは、「入院?!いや入院はないで~!入院しても暇なだけやでw」とコテコテの関西弁で、しかも鼻で笑いながら言われた。しかも、自分の年齢(40歳未満)であれば第一義的に血縁者のドナーによる造血幹細胞移植による治療が通常は採用されるらしく、治療方針としても再び造血幹細胞移植を目指すことになった。今まで聞かされてきたこととはまるで違いすぎて、若干混乱した。再生不良性貧血の治療といっても、その病院や先生によって方針は大きく変わるようだった。

 転院したので、再度何もかも一から検査をし直すことになった。それで何度目かの“腰からボールペンほどの針を刺して骨髄の組織を削り取る検査”や肺、心臓、呼吸器などの検査もした。この頃には検査にはだいぶ慣れていて、腰に刺す針を直視できるまでになった。凄く太かった...。数日後、検査の結果が出た。そこでも「おそらく再生不良性貧血だろう」とのことで言われた。一方でこれまでは“ステージ3(やや重症)”だと言われていたのが「好中球が493しかないから、実質ほぼステージ4(重症)」だと言われた。

 という訳で、以降は実家から病院に週一回の頻度で血液検査と輸血をするために通院しながら、血縁者のドナーによる造血幹細胞移植が可能かを調べるという治療方針で進めることになった。緊急入院をした日より13日後の2019年5月21日、今度は急遽退院して凡そ3か月間に渡る自宅での療養生活が始まったのだった(内心、ストレスフルな入院環境から逃れられたことにホッとした)

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写真:大学時代の友達が面会に来た時に持ってきてくれたお菓子達です。沢山話せて元気をもらえました!本当にありがとう!

 

 ~つづく~ 次回、自宅療養生活と造血幹細胞移植の話